☆ 安楽ならしむべし ☆


 養蚕を基幹産業にした埼玉県秩父地方の農民が、デフレ経済下の困窮と圧政に耐え兼ねて一斉蜂起した「秩父困民党事件」から、昨年末でちょうど120周年を迎えた。秩父事件の首謀者、井上伝蔵を描いた映画『草の乱』が昨秋来、静かな反響を呼んでいるという。放漫財政のツケを増税で解消するしかなく、デフレ圧力が長期間くすぶる今の日本に、1世紀以上も前の大衆のエネルギーが残っているのだろうか。

 西南戦争のための戦費調達で紙幣を増発した結果、猛烈なインフレが日本の庶民の生活を襲った。明治政府は、近代国家の制度的なインフラ整備と、悪性インフレの芽を根絶するために、増税による財政引き締めと軍備拡張に乗り出す。その反動が、日本が近代で最初に遭遇したデフレである「松方デフレ」となって、さらに庶民を苦しめた。革命の盛り上がりを警官の手では負えなくなり、ついに軍部が鎮圧に出動した「秩父事件」を境に、日本の自由民権運動は悄然と消え、大衆の犠牲の上に立った中央集権国家・大日本帝国の基礎が築かれていった。

 当時の日本経済は『米と繭の経済構造』(山田勝次郎)。生糸の価格は急落し、秩父地方の農民は借金苦の余りに田畑を高利貸しに手放し、生活の糧を失っていく。そこで「窮鼠、猫を噛む」ように、秩父・群馬地方を中心に北関東の農民が、当時の自由民権運動に共鳴し、思想的弾圧にひるむことなく、立ち上がったわけだ。バブル崩壊後、金融システムが動揺する中でデフレの芽が育まれ、繰り返す財政出動に活路を求めた挙げ句の果て、行き場を失ってしまった現在の日本の実状と、当時の情勢は酷似している。

 あえて違いを挙げるとすれば、何よりも、現在の日本と日本人が、急激な経済変動にも吸収できるほどの社会経済基盤を持ち、多少の下ぶれ圧力に左右されないほどに、自由で豊かな生活を送っていることだろう。そうした恩恵に浴する余りに、将来に対し漠然とした危機感を抱いても、自らの既得権放棄につながるような改革には背を向けるか、現実にシラ気て不貞寝するかがぜいぜいのところ。

 2005年度税制改正では、小渕政権下の99年度税制改正で実施した所得課税の定率減税(恒久的減税)の一部廃止に踏み切った。「増税路線への転換」とマスコミを中心に、国民負担の増大を喧伝するが、よく考えて欲しい。物価の下落が、所得低下や需要の減退を伴いキリ揉み状態で進行するデフレスパイラルのとば口に追い込まれた6年前の日本が、恐慌回避で打ち出した、「なんでもあり」の政策総動員体制のひとつが「恒久的減税」だった。これを一部廃止にしたところで、98年以前に比べて税負担はまだまだ軽く、先進国最低の国民負担に留まっている。

 増税・改革論議は別の機会に譲るにせよ、逆に社会保障改革と一体になった消費税率の引き上げを先送りすればするほど、将来の負担も大きくなって跳ね返る。そもそもデフレ危機の責任は、カジノ資本主義に酔い痴れた“一億総投資家”と、その後のポピュリズム的な積極財政を支持した政治家、産業界すべてが負うべき性格のもの。不平士族の反乱を鎮圧するための戦費調達という、一般大衆の預かり知らぬところの不換紙幣乱発を淵源にした松方デフレ政策と、現在までのデフレをもたらした政策の背景は、似ても似つかぬものといっていい。
 「圧政を変じて良政に改め、自由の世界として人民を安楽ならしむべし」…秩父困民党が120年前に掲げた決意文の一節には、デフレで追いつめられた社会の悲壮感と変革の熱い意欲が混在し、今でも人を惹きつける迫力がある。しかし現在では、悲壮な覚悟で槍や刀を手にとって反乱を起こすまでもなく、十分にモノが言え、活動する自由な環境が、社会、企業、個人全般に整備されている。

 バブル崩壊後3度目の景気拡大局面は、04年第2四半期でピークアウトした。この間、デフレの根絶には至らず仕舞い。調整期間の長短に関係なく、現実に目を向ける時が来た。秩父事件の5年後、明治政府は大日本帝国憲法を制定、さらにその5年後に日清戦争へと、貧相な経済インフラを補うように対外拡張戦略に傾斜した。好不況とかかわりなく停滞する経済にあって、捨て鉢にならずに安楽な将来を展望したい。

 
(H17/1/7記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.