☆ アニマル森の五輪観戦記 ☆


 アテネで開催中の五輪では、40年前の東京五輪に匹敵する金メダルラッシュとなり、深夜中継で睡眠不足のビジネスマンが続出したとか。だが、日本中を釘付けにしたとはいえ、「勝った!勝った!」と“大本営発表”風に繰り返す五輪番組から、世界のすう勢と日本の構造変化はまったくといっていいほど実感できない。思わず、「株価はまだ上昇する」と確信めいた報道を繰り返し挫折した日本経済を思い浮かべてしまった。本当に日本は強くなったのか。

 日本の変わりようを相対比較しようと、五輪番組に手がかりを求めても無駄というもの。他国のメダリストとそれを支える社会構図が、どんな優れた技量を発揮し快挙を勝ち得たかについて、日本のメディアが詳しく報じることは少ない。だからといって、日本のメディアが諸外国に比較し特別歪んでいるわけでもない(歪んでいるのは確かだが)。近代五輪の再興を主導したクーベルタン男爵にさえ、ナショナリズム的な戦略的発想があったという。普仏戦争でフランスがドイツに決定的敗北を喫したのは、身体的訓練の差であるとし、フランス青年に競争精神を叩き込むために近代五輪を提唱したといわれる。冷戦期には、米ソが、自己の体制の優位を金メダル獲得数で証明しようと凌ぎを削った。国際社会復帰後の中国も、メダル獲得を国威発揚の手段として利用し、2008年の北京開催決定で大国復活を全世界に印象づけた。

 世界に開かれた窓であるはずの五輪が、内向き思考のお祭り騒ぎで終幕するのはある意味で仕方のないこと。むしろ五輪の宿命かもしれない。しかし、メダル獲得で日本中が熱狂した現象は、日本人のアイデンティティーが国家と一体になったことを証明しているとは単純には思えない。まして、日本の新しい強さの象徴とは言い難いものがある。では、ビジネスマンを不眠症に陥れるほどに惹きつける魅力とはなんだったのだろう。

 その背景には、日本社会の構造的な変化の影が映し出されているのではないか。女子柔道4個、女子レスリング2個、女子マラソン1個の合計7個。この比較的歴史の浅い女子種目を差し引いた金メダル数は、東京、メキシコ、ミュンヘンをはるかに下回る。つまり、金メダルの増加分の大半が、女子選手のメダル獲得に依存するといっていい。ある女子レスリングの父親が絶叫調で連呼した「気合いだ!」の一語が、もはや女の“専売特許”になったと、錯覚に陥るほど女子選手の活躍は目覚しい。

 企業リストラの煽りを受け、職業団スポーツが衰退の一途をたどっているといっても、男女共通の条件だ。強いていえば、女性には今も昔も社会で活躍する場は、男ほど恵まれてはいない。一方、男の逆風は弱まる兆しはない。景気拡大局面にあって、完全失業率が4.9%に高止まりし、過酷なリストラの余震が続き、1998年から6年連続で中高年男性を中心に年間自殺者数3万人を突破し続ける。男社会の“男の時代”に慣れ親しんだ男性諸氏にとって、精神的にこれほど過酷な時代は、かつてなかったといっても言い過ぎではあるまい。

 日本社会での男性への逆風が、五輪競技での日本男子の相対的地盤沈下に、どこかでつながっているというなら、これほど悲しい五輪はない。活躍できるのは、傍目には非人間的なほどに根性の据わった天才的男性スイマーの類か。「中年の星」を自称する学校教諭で時間も職も確保されているメダリストに「中年よ大志を抱け」と言われても、少しも励みにはならない。

 たしかに、各種経済指標や2004年度企業業績予想では、日本経済は上昇気流に乗ったかに見える。しかし、五輪のゴールドラッシュに隠された日本社会の男性不振の構図が解消しない限り、手放しでは喜べない。美人?アスリートたち(日本の場合、外観の美しさと勝負強さは逆相関関係にある、というのが筆者の本音的見解)の活躍に一時の精神的爽快感が得られたとしても、ニッポンの男たちに、「気合い」が復活するにはまだ時間が必要なのかもしれない。

 
(H16/8/25記)


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