☆ 面白い名著、そうでもない名著 ☆


 洋の東西を問わず時代を超えて残る名著がある。だが、その中でも面白いと思う著作もあれば、あまり面白くないと思う著作もある。

 筆者の場合、面白くないと思う代表は孔子の『論語』だ。名言だと思う言葉はある。「巧言令色鮮し仁」はなるほどその通りと感心する。同著に由来する「子、怪力乱神を語らず」は、迷信深かった古代の人々を啓蒙するのに大いに役立っただろう。しかし、総じて言えば、当たり前のことを言っているだけで、どこがそんなに偉大な著作なのか、とんと分からないというのが正直な感想だ。孔子の思想は中国、朝鮮、日本などに大きな影響を与え、その思想は今ではこれらの国の常識になっている。だから、その偉大さが分からないのだという意見もあろう。だが、それが本当だとしても読んでいて退屈で感動することもないし良さが分からない。

 感動し、今でも時々読み返すのは『聖書』と『荘子』だ。聖書は旧約も新約も面白い。すべてを読んだわけではないが、読んだ箇所で心に残るところは多い。イサクの燔祭の逸話は謎めいており、今でもどう解釈するのかあれこれ悩み、同時に楽しんでいる。一番心に刺さるのは、『マタイの福音書』に出てくるイエス12人の弟子のリーダー、ペテロの逸話だ。最後の晩餐の後、逮捕されたイエスの裁判のとき、ひそかに忍び込んだペテロは周囲の者から「あの人(イエス)の仲間だ」と言われ、三度、「私はあの人を知らない」と嘘を吐いてしまう。その瞬間、鶏が鳴く。ペテロは最後の晩餐でイエスから「貴方は鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うであろう」と予言されたことを思い出し号泣する。最良の弟子ペテロすら、恐怖に負け神の子イエスを裏切ってしまう。人は弱い、神の前で必ず躓く。だからこそ神はイエスの姿をして人々の前に現れた。イエス復活の後、悔い改めたペテロは命を賭してイエスの教えを人々に伝え殉教する。この鶏が三度鳴く下りは何度読んでも感動して涙が出る。ヨハネの福音書の冒頭「はじめにロゴス(「言葉」と訳されることもある)ありき。ロゴスは神とともにあり、神なりき」も強烈な印象を残す。この箴言はヘーゲル哲学体系を思い起こす。ヘーゲルの哲学体系は「論理学」、「自然哲学」、「精神哲学」と展開する。始めが論理学であるのはこの言葉に触発されたものだと思う−正しいかどうかは知らない。

 『荘子』は哲学的な問いに繋がり魅了される箇所が多い。特に「荘周夢で胡蝶になる」の寓話は、「いま夢を見ているのではないことをどうやって証明するか」という現代においても解くことができない哲学的問いを想起する。この問いに対しては、ウィトゲンシュタインフリークの一人として、前期ウィトゲンシュタインを参考にすれば、「語りえぬことには沈黙しなくてはならない」という『論考』の最後の言葉を引用して、語りえぬ問いなのだと答えることになり、晩年のウィトゲンシュタインを参照すれば「夢を見ているのではない」は疑うことに意味がない言明なのだと答えることになる。もし夢を見ているのであれば何も確実なことは言えなくなる。全てが夢ではないかと疑ったら人々は共同生活が不可能になる。

 要するに、人は自分の興味や感覚にマッチしたものに感動し、読む価値があると他人に勧める。それだけのことだ。何に感動するか、何から教訓を得るかは人により異なる。『論語』に共感し、『聖書』や『荘子』には何も感じない人もいる。人それぞれ、それでよい。ただ、名著と言われる著作は好きになろうと嫌いになろうと読み漁って損はない。


(2025/8/23記)


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