☆ 量子力学100年 ☆


 2025年は量子力学誕生100年目に当たる。

 19世紀末まで古典力学と古典電磁気学(合わせて古典物理学と呼ぶこともある)で全ての自然現象が説明できると物理学者は信じていた。ところが1900年のプランクの黒体輻射の理論を皮切りに、アインシュタインの光電効果の理論、ド・ブロイの物質波、ボーアの原子模型などで、この信念は大きく揺るがされた。これらの理論は前期量子論と呼ばれている。同時期にはアインシュタインの特殊相対性理論と一般相対性理論が完成し古典物理学の時空概念と重力理論が根本的に見直された。

 そして、遂に1925年、ハイゼンベルグの行列力学が登場し量子力学の時代が幕を開けた。翌年には行列力学よりも分かりやすく良く知られたシュレディンガーの波動力学が完成、その後、ディラックの手により行列力学と波動力学の同一性が証明され、続いて相対論的量子力学が誕生した。さらに1930年前後には、ハイゼンベルグやパウリにより、現代科学で最も普遍的で精緻な理論である場の量子論の原型が登場した。その後も、繰り込み理論を取り込んだ量子電磁力学の完成、ゲージ対称性を基礎原理とする素粒子の標準理論が現れたが、それらはすべて量子力学の拡張とみなすことができる。現在、標準理論を超える理論の探究が進められているが、それら新理論でも量子力学の基本原理、状態の重ね合わせ、不確定性原理、状態変化のユニタリ性、量子もつれなどは変わることなく維持されている。まさに量子力学は現代科学の基礎の基礎と言ってよい。

 応用面でも量子力学の威力は絶大で半導体、レーザー、核エネルギー、電子顕微鏡、MRIなどは量子力学なしにはありえない。さらに近年は上述した量子力学の基本原理を活用した量子コンピュータ、量子通信などの量子技術が最先端技術として注目を集めている。また太陽や夜空に輝く星のエネルギー源、化学反応、気体・液体・固体や磁性体・非磁性体などの相転移、超伝導や超流動など多くの自然現象は量子力学抜きでは説明できない。現代の宇宙論は一般相対性理論と場の量子論や量子統計力学に基づき展開されている。このように、応用面でも理論面でも量子力学は現代文明の中核をなしている。

 しかしながら量子力学は極めて難しい。理系の学生や出身者でも量子力学には苦労させられる。量子力学で赤点を取り泣いた同級生がたくさんいた。筆者は辛うじて合格点をとったものの小学生・中学生時代の夢だった物理学者は諦めざるをえなかった。難しい理由はまず高度な数学を、それも様々な分野の数学を習得する必要があることだ。初級編でも解析学、線形代数、複素関数論、偏微分方程式論が必須で、中級編になると群論などの現代代数学、関数解析が必要となる。理論物理学者を目指す学生が学ぶ上級編ではトポロジーや微分幾何学、代数幾何学なども必要となる。また量子技術の研究開発を目指す者は数理論理学、情報理論、計算量の理論などの学習が欠かせない。数学抜きの分かりやすい量子力学の解説書もあるが、量子力学の神髄を理解するには物足りない。ディラックは量子力学の説明を求められ、数学の素養のない者に教えることはできないと断っている。また量子力学が描き出す世界像が波束の収縮、量子もつれ等、専門家でもその本質が理解しがたい不可解な性質を有することも習得を困難にしている。ほとんどの学生や研究者は量子力学の応用面での目覚ましい成果に注目し、量子力学の不可解な性質には目を瞑り計算方法としてのみ利用することで困難を乗り越えている。しかし当然それでは満足できない者がいる。その代表がアインシュタインで、終生量子力学は不完全な理論だと信じ、より完全な理論を目指したが失敗に終わっている。2021年に亡くなった20世紀後半を代表する物理学者であるワインバーグも量子力学の解釈に不満を持ち、より完全な理論が登場することを期待していた。しかし、いまのところワインバーグの期待に応えられる理論は存在しないし、将来登場するかどうかも分からない。

 このように難解な量子力学だが、応用面では今後益々重要性を増していく。20世紀半ばまでは、多くの技術は古典物理学で理解し、設計製造できるものだった。自動車、飛行機、船舶、鉄道のような運輸手段、建築物、火力発電や水力発電などは古典物理学で十分に理解し、設計製造することができる。しかし、こういうレガシーな技術はすでに十分に成熟しており今後の進歩は限られる。一方、量子力学の世界であるミクロの領域を操作する技術は今後飛躍的な進歩が期待される。そこには量子計算や量子通信など狭義の量子技術だけではなく、情報技術全般、核融合、様々な化学物質や医薬品の設計製造、遺伝子操作、超精密な計測器、環境関連技術などが含まれる。狭義の量子技術以外では直接量子力学を利用しないで経験則で代用されることが多いが、技術を洗練させ精度を上げるには量子力学の知見と量子力学を直接用いた第一原理計算が欠かせない。

 いずれにしろ、21世紀以降の人類文明が全面的に量子力学に依存するものになることは間違いない。だが、そこには危うさも感じる。量子力学は難解で大半の一般市民には十分な理解はできない。政治家や官僚、報道関係者や評論家にも同じことが言える。また、量子力学と並び今後極めて重要な役割を果たすことになる計算理論やアルゴリズム論、圏論なども極めて難しい。つまり、これからの文明は大半の人間が理解できない科学とそれに基づく技術を土台とすることになる。果たしてそのような文明は持続可能なのだろうか。生活と産業の隅々で、これら難解な学や技術を容易く習得し操ることができるAIが必要不可欠になるかもしれない。だが、それはどうも不気味な世界であるような気がしてならない。


(2024/12/28記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.