最近は、政治的傾向を分類するとき「保守とリベラル」という表現がよく使われる。しかし半世紀前、筆者の若いころは「保守と革新」が一般的に使われていた。保守は伝統的な文化や慣習を重視し概ね現状を肯定する。課題や支障が生じたら穏健な方法で改善を図る。一方、革新は実現すべき理想を重視し多くの場合現状に否定的で社会全体の急進的な改革を志向する。政党でいえば、保守の代表が自民党、革新の代表が日本社会党と日本共産党、中道が公明党と民社党という色分けがなされ、概ね適切な評価だつたと言える。60年代から70年代にかけて都市部を中心に社共連合による革新自治体が大きな勢力を誇り、中央は保守、地方は革新などと言われた時期もあった。 だが、世界的な共産主義運動の退潮もあり、野党第一党の日本社会党は実質的に消滅し、日本共産党も退潮を隠せない。結果的に革新の代表格だった両党の衰退で革新という言葉が使われることは大幅に減った。代って登場したのが「リベラル」という言葉だ。だが「保守とリベラル」という表現には色々な意味で不適切な面がある。まず衰退したとはいえマルクス主義は今でも影響力を維持している。それは大型書店の社会科学関連の棚を見ればよく分かる。マルクスは今でも最も人気の高い思想家の一人であり、現代思想にも大きな影響を与え続けている。しかし、「保守とリベラル」という分類だと共産主義が入る余地がない。リベラルは本来「自由主義者」を意味するが、「進歩主義者」を意味する言葉として使われることも多く、日本ではむしろこの意味でリベラルが使われている。進歩主義者という意味であれば共産主義者も含めることができそうに思える。しかし、進歩主義者という意味でリベラルを使っても、リベラルである以上、個人の自由を重視する進歩主義者でなくてはならない。一方、共産主義者は個人の自由よりも人民全体の利益を優先する。高度に発展した共産主義社会では個人の自由は全面的に認められ、それが人民全体の利益に合致するというのがマルクス主義の教義だが、資本主義から共産主義への長い移行期においては共産主義実現のために個人の自由は相当に制限される。共産主義は基本的に私有財産を認めず社会的な財はすべて共有財産となる。それゆえ人々には私有財産の放棄が求められる。特にブルジョア階級には極めて厳しい措置が取られる。こういう思想や政策は進歩主義と解釈してもリベラルとは合致しない。それゆえ、「保守とリベラル」という分類では共産主義を位置付ける場所がない。また急速に勢力を伸ばしている参政党のような復古主義的な傾向を持つ政党や政治家も位置付ける適当な場所がない。 さらに上でも述べたとおり、リベラルには自由主義という意味と進歩主義という意味が含まれるが、力点がどちらにあるかでその思想や政策は大きく分かれる。グローバル化を推進したネオリベラリズムは経済的自由を最優先し、進歩主義が重視する貧富の格差是正には無頓着だ。逆に、進歩主義のリベラルは貧富の格差や差別を厳しく批判し、格差や差別解消のためには経済的自由の制限を容認あるいは積極的に支持する。新型コロナのような人々の生命を危機に陥れる感染症に対しても行動制限を容認する。このようにリベラルと言っても様々な立場があり、一括りで語ることはできない。 また、保守は急進的な改革を否定し穏健な改善を志向するという意味で、政治の方法論的な側面が強く、リベラルは実現すべき目標を強調するという点で理想論的な側面が強い。それゆえ、保守とリベラルを並置することは、物を「丸い物と青い物」に分類することが無意味なのと同じ趣がある。だから、丸くて青い物があるのと同じように、リベラルで同時に保守ということがある。たとえば「憲法の理念である平和、人権、民主は尊いものであり、現代日本に定着し伝統となっている。それゆえ、憲法を尊重し性急な改憲を否定する自分こそ真の保守主義者だと考えている」という意見を述べる者がいる。このような見解の持ち主は方法論的には保守、理想論としてはリベラルということができよう。立憲民主党の枝野やトクヴィルなど保守主義の歴史に関する研究で著名な宇野重規などがこれに該当しリベラルな保守主義者と呼ぶことができる。要するに、保守とリベラルは対立概念ではなく、異なるカテゴリーに属する概念と考えるべきだろう。 このように、「保守とリベラル」という分類には無理がある。このような疑問点の多い二項対立図式は物事の本質を曖昧にし、議論を妨げ、社会の分断を深める。十分な吟味をせず安易に「彼は保守だ」、「彼女はリベラルだ」などと断言しないように注意が欠かせない。斯く言う筆者もこれまで「保守とリベラル」という表現を安易に使用してきた。これを機に自らを戒める。 了
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