ウィトゲンシュタインは『論考』を書き、「哲学の問題はすべて解いた」と宣言してケンブリッジ大学を去り地方の小学校の教師になった。ウィトゲンシュタインは熱心な教師で子どもたちのための辞典も作成している。だが、そこは超変人のウィトゲンシュタイン、地元の保守的な人たちとうまく付き合えるはずがない。生徒たちもウィトゲンシュタインの授業を理解できず言うことを聞かない。腹を立てたウィトゲンシュタインが体罰を振うことも少なくなかった。最終的には、殴った生徒が卒倒しその場から逃げたことで批判を浴びたウィトゲンシュタインは辞職した。まあ当然の成り行きだろう。だが、教師を辞めたことで、ウィトゲンシュタインは哲学に復帰し、『論考』と共に後世に絶大な影響を与えた未完の遺稿『哲学探究』を残して20世紀以降の哲学に決定的な影響を与えた。本人は不本意だったかもしれないが天命を全うしたとも言える。そんなウィトゲンシュタインが教師時代、地元の者たちと意見が合わず腹を立ててラッセルに「この村の人間はみな悪人です」と書いた手紙を送ったことがあるという。それに対してラッセルの返事は「人間はみな悪人である」というものだった。さすが『幸福論』を書いた哲学者、ウィトゲンシュタインの独り善がりを諫めながら、人間の本質を突いている。ただし、この話しが事実かどうかは知らない。 親鸞聖人は「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と説いている。この言葉は誤解されやすい。親鸞聖人は悪を奨励しているようにも見える。だが、もちろん、そうではない。親鸞聖人の思想をよく知らないから、この言葉の真意を理解している自信は全くない。だが筆者はこういう風に解釈している。自らを善人だと思い込んでいる者は人間の弱さ、愚かさを分かっていない。どんな正直者でも嘘を吐いたことが一度もない者はいない。他人を嫉妬したり、恨みを抱いたり、見下したりしたことが一度もない、という者もいない。善いことをしているつもりでも、実際は人を傷つけていることは多い。親が子どもに良かれと思って遣ったことが却って子どもを追い詰めた、などということは珍しくない。教師も同じ、組織の上司も同じだ。善行のつもりで真逆のことをしていることは多く、しかも往々にしてそのことに気が付かない。人間は誰もが、愚かで、弱く、独り善がりな面がある。問題はそれを自覚できるかで、親鸞聖人が善人と呼ぶのは自覚できない者のことをいう。一方、自らが悪から逃れられないことを自覚する者は、人間の弱さ、愚かしさを知っている。だからこそ、寧ろ悪人の方が阿弥陀如来の本願に相応しい。ただし阿弥陀如来はこの世で苦しむ全ての衆生を救済する。だから「善人なおもて往生する、いわんや・・」なのだ。 ラッセルも親鸞も、全き善人など存在せず、程度は様々でもすべての者は悪人であることを説いている。必要もないのに自ら積極的に悪をなすことはもちろん許されない。それは悪人というより独善的な者というべきだ。全き善人などいない、この賢人たちの知恵を会得すれば、他人を責める前に自分に非がないかを考えるようになる。因みに筆者は会得できないので、未だに自分のことは棚にあげて他人を責める。言うは易しく行うは難し。 了
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