☆ ありがとう青木、山崎 ☆


 神宮球場の広島戦で、10月2日に青木宣親、10月3日に山崎晃大朗の引退試合が行われた。ヤクルトスワローズのファンの一人として二人には心から感謝する。

 青木は03年のドラフト4巡目でヤクルトに入団した。青木は早稲田大学野球部史上唯一のリーグ4連覇の立役者の一人で、一年上にソフトバンクの和田、同年に阪神の中心選手だった鳥谷、一年下にヤクルトで長く二塁手として活躍した田中がいる。青木はドラフト当時は、鳥谷が脚光を浴びる一方で目立たない存在だった。身体が小さく長打力がなく、筆者は代走要員か守備要員が精々のところと踏んでいた。だが青木は見事にその予想を裏切った。入団二年目の05年、202安打で首位打者と新人王を獲得、その後も大リーグ移籍までに3度の首位打者、2度の200安打超えを記録した球界を代表する選手となった。中日の大投手、山本昌は青木を天才と評価し、「打ち取ったはずの打球が野手の間を抜けていく」と舌を巻いたという。大リーグ移籍後は怪我が多く十分な活躍はできなかったが、それでも6年間で774安打を記録し存在感を示した。18年青木はヤクルトに復帰した。正直言うと、当時筆者は不満だった。前年ヤクルトは球団ワーストの96敗を喫し断トツの最下位に沈んだ。野手も不振だったが投手陣が崩壊したことが最大の原因だった。ヤクルトが必要とするのはピークを過ぎた青木ではなく投手だ、青木の年棒で投手を3人取ることができるではないか、と大いに不満を抱いたことを覚えている。だがここでも青木は筆者の予想を大きく裏切り、3割を悠に超える打率を残し2位への躍進の原動力となった。その後は年齢もあり成績は年と共に下降線を辿った。しかしその一方で青木はチームを鼓舞し若手選手の育成に多大なる貢献をした。村上宗隆が青木引退会見で号泣した姿がそれを如実に示している。青木なくして21年、22年のヤクルト連覇はなかった。日米通算2730安打は安打数歴代5位、200安打以上を2度記録したのは青木ただ一人、守備でもゴールデングラブ賞7回、まさに青木は球史に名を残す名選手の一人だった。

 山崎は地味な選手で記録的には青木とは比較にならない。だが、ヤクルト連覇の二年間、縁の下の力持ち的な存在として山崎は大活躍した。また、その飄々とした人柄は多くのファンに愛された。殊勲選手としてお立ち台に立つことは少なかったが、お立ち台に立った時の淡々とした語り口には山崎の飾らない誠実な人柄が現れており、観る者の心を癒してくれた。年齢的には31歳でまだまだ遣れると思うが、体調が不十分であることで引退を決断したと言われる。些事に拘らない彼の人柄がここにも現れたと思う。

 青木、山崎ともまだまだ若く先は長い。これからも様々な分野で活躍することができる。二人の一層の活躍を祈りたい。


(2024/10/7記)


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