ロボットは心を持つことができるか?よくある質問だが答えは出ていない。そもそも心とは何か、心を持つか持たないかをどう判別するのか、こういう問いに答えが出ていないのだから最初の問いにも答えようがない。 近年のAIの急速な進歩に比べてロボットの進歩は遅い。それでもドローンは広く利用されるようになっているし、米国の一部の州では警察犬の行動を模倣したロボット警察犬が使われている。現時点ではロボットは力の強さと持久力を除くと柔軟で臨機応変な行動が可能な人間や動物より遥かに劣る。 それでもロボット技術は日々進歩しておりAIの進歩がそれを加速している。野生動物、優れた職人やアスリートなどに匹敵するロボットは永遠に、あるいは少なくとも当分の間は作ることは無理だが、人間に近い振る舞いができるロボットはここ10年くらいで登場する可能性がある。本物の人間と勘違いするほど精巧なマネキンは既に存在する。それに人間に近い振る舞いや言動をする機能を装備すれば、すぐにはロボットと気が付かないということが起こりえる。そのようなロボットが進歩し、どんどん人間に近づいていくと、ロボットに心があるか、あるいは心を持つロボットを作ることができるかという問題を避けて通ることができなくなる。 「生命の尊さ」という思想は心があるということに依存する面が強い。それゆえ、もしロボットが心を持っているとしたら、あるいは心を持つロボットを作ることができるとしたら、ロボットを人間の意のままに操作し、活動を停止したり廃棄したりすることが許されるのかという倫理的な問題が生じる。この問題はカズオ・イシグロの『クララとお日さま』に象徴的に描き出されている。人間より遥かに善良な心の持ち主である人間型ロボット「クララ」は仕えていた孤独な少女が大人になったことで不用となり、倉庫で過去を回想しながら廃棄される日を待っている。これが現実ならば、多くの者がクララの廃棄に憤りを感じるだろう。筆者もクララを廃棄することは人倫に反すると感じる。 動くことのないスタンドアロン型あるいはネットに繋がっているだけのAIならば、如何に巧みに言葉や画像、映像を操ることができたとしても、稼働を停止したり不要になったら廃棄したりすることに心の痛みは感じない。高い知能は心の有無とは一致しない、一寸の虫にも五分の魂だが超知的AIには魂はないと考えて問題はない。だが、人間そっくりで人間のように振舞い話すロボットの場合は、そうはいかない。それゆえロボットの研究開発には大きな倫理的な問題があることを認識しておく必要がある。また心とは何か、心の有無の基準は何か、ロボットが心を持つことはあり得るのかという哲学的な問題を真摯に考えておく必要がある。 了
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