「就職先をどこにするか悩む」、「与党に投票するか野党に投票するか悩む」悩みの種は尽きない。決めなければならないのに、なかなか決められないとき「悩む」という。一方、同じような意味を持つ言葉に「迷う」がある。では「悩む」と「迷う」はどこが違うのか。 同じだという者がいる。先の例文を「就職先をどこにするか迷う」、「与党に投票するか野党に投票するか迷う」と書き換えても意味は変わらない。だが目的地に至る経路を見失い道をうろうろしているとき「道に迷う」とは言うが「道に悩む」とは言わない。さきほど「悩みの種は尽きない」と言ったが、「迷いの種は尽きない」という表現は普通使わない。「悩む」と「迷う」は意味合いが異なる。 「悩む」は能動的な事象で、「迷う」は受動的な事象と解釈できそうに思える。道に迷うのは能動的な事象ではなく、受動的な結果に過ぎない。「悩みの種は尽きない」という表現には、人は(能動的に)悩む存在だという含意がある。だが能動的か受動的かの区別は難しい。だから就職先や投票先は「悩む」でも「迷う」でも同じように意味が通じる。 「悩む」は苦痛を伴うという意見がある。確かに「悩んでいる」という表現は「迷っている」という表現よりも深刻な感じを与える。正解がない問題をあれこれ考えることを「悩む」と表現し、正解があるがそれが分からないとき「迷う」と表現するという意見もある。いずれも一理ある。だが、それで問題解決とはいかない。多くの場合、苦痛を感じているかどうかは本人ですら分からない。正解がある問題でも「悩む」という表現が使われることがあるし、正解がない問題にも「迷う」という表現が使われることがある。 他にもいろいろな説明がある。だが、どれも決定打とはならない。それもそのはず、多くの状況で「悩む」と「迷う」は表現上、置換可能だからだ。もし両者を明確に区別できるならば置換はできない。さて、こうしてつらつらと書き連ねているとき、私は悩んでいるのだろうか、迷っているのだろうか。強いて言えば「悩んでいる」が当て嵌まりそうだが、深刻なものではなくウィトゲンシュタインファンとしては「要は言語ゲームの問題だ」で決着が付くので「迷っている」が相応しいとも言える。要するにどうでもよいということになりそうだ。ここまで書いておいて、それはないだろうと思われるかもしれない。しかし言葉がこのように恣意的だからこそ人には自由がある(と思う)。 了
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