「岡崎次郎」と言っても知らない人がほとんどだろう。俳優の「おかざきじろう」氏を思い浮かべる人がいるかもしれないが、字が違う。こちらの方は「岡崎二朗」氏だ。漫画家に「岡崎二郎」という方がおられるそうだが、あいにくと存じ上げない。 岡崎次郎は1904年生まれのマルクス経済学者で『資本論』などマルクス関連の著作の翻訳者として名を残している。筆者は岡崎次郎訳の大月書店国民文庫版で『資本論』を学んだ。文庫版では旧社会党の最左派、社会主義協会のリーダーであった向坂逸郎訳の岩波文庫『資本論』が先行していたが、こちらも実際のところは岡崎が大半を訳している。 岡崎はマルクス経済学者と言っても、宇野弘蔵のような学術的な業績は特にあげていない。向坂のように政治活動に携わった訳でもない。一時期、大学教授も歴任したが、本業は翻訳家というのが相応しい。だから世間的にも知る人は少ないし、脚光を浴びる機会もなかった。そして、それが本人が望む生き方でもあった。 その岡崎が83年に『マルクスに凭(もた)れて六十年 自嘲生涯記』(青土社)という自伝を出版した。筆者は購読しようと思っていたが時機を逸し絶版になってしまった。復刊を望む声が少なからずあったが実現することはなく、古書はあったが1万円を超えており購入を諦めた。ところが、昨年、何が切っ掛けか知らないが復刊された。念願が叶い早速購入し通読した。内容は省略するが面白かった。風変りとも月並みとも言えるこの人物の人生がユーモアを交えて淡々と記されている。岡崎は文章が達者で、しかも軽妙洒脱、マルクス経済学者などにならず、作家かエッセイストを目指していれば歴史に名を残す著名人になっていたのではないかと残念な気がする。 この本は岡崎の遺書とも言われている。最後に、それが仄めかされている。「自分で自分に始末をつけること、これはすべての生物の中で人類にだけ与えられた特権ではないだろうか。・・余りにも自主的に行動することが少なかったことを痛感する。せめて最後の始末だけでも自主的につけたいものだ。・・どこに飛び込もうと死体の捜索などで大迷惑を蒙る人間がいるのだと言われた。それもそうだろうが、・・これから何年も世間に老害を流しているよりはましなのではなかろうか。」と末尾に記されている。事実、出版の翌年、岡崎は妻と共に旅に出て、そのまま失踪した。遺体は発見されていないが自ら死を選んだと推測されている。 岡崎夫妻は失踪当時、病んでいたわけではなく、生きることが苦痛だったとは思えない。だから安楽死を望んだというわけではない。ただ人生の締め括りを自らつけるということだったのだと思う。 岡崎のような最後は決して褒められたものではない。老人はただ老害を流すだけの存在ではない。若い人に適切な助言をしたり忠告したりすることができる。たとえ寝たきりになっても周囲の人々に生き甲斐や癒しを与える者たちがたくさんいる。岡崎のように否定的な考えをする必要はない。夫人も本当に夫の考えを理解し同伴したのかどうかは分からない。だが、同時に、こういう身の処し方もありなのかとも感じる。政界始め各界で老害を流し続け若い人の芽を摘み社会に貢献するどころか悪くしていると思える者たちが跳梁跋扈する昨今の日本では、その身の処し方は推奨できずとも、潔いとも思えてくる。岡崎の生き様は老齢の域に達した者たちに自らの生き様を考える道標になっている。 了
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