☆ 我思う故に我在り、しかし ☆


 「我思う故に我在り」デカルトのこの言葉は近代西洋思想を代表する。聖典や教会など伝統的な権威に頼ることなく、我自身が主体として合理的、実証的に思考し実践し真理や正義を見出すことが宣言されている。この精神の下、西洋は近代科学、近代技術、資本主義、産業革命、人権思想、民主制を生み出し現代世界の枠組みを築いた。近代西洋思想は中国、イスラム教国、その他多くの途上国から激しい反発を受けている。しかし、それでも現代世界の政治経済体制と文化が近代西洋が生み出したシステムに則っていることは間違いない。いかに反発が強くとも時計の針を逆転することはできない。そんなことをすれば途上国を含め反発している国も不幸になる。中国は毛沢東思想を棚上げして近代西洋の延長線上にあるグローバル市場に参入し飛躍的な経済成長を実現した。習近平が改革を試みても改革開放路線を根底から覆すことはできない。だからこそ習は共同富裕を提唱し富裕層が自主的に富を社会に還元することを要求している。

 一方で、デカルトに先立つこと2千年以上前、お釈迦様は「我思う故に我在り、などと考えてはいけない」と人々に説いている。我に固執するから人は苦しみ、悩み、不幸になる。我などないと知ることで悟りを開き、苦と迷いの世界から解脱することができる。この教えは当時のインドでは様々な思想家たちに唱えられていたもので、お釈迦様の独創ではない。古代インドの偉大な思想的伝統だったと言えよう。中国でも老子や荘子など道教には同じ思想が見いだされる。『荘子』の「荘周、夢に胡蝶になる」や「混沌、七竅に死す」などの箴言は「我=主体=真善美の探究の土台」という近代西洋的な発想を徹底的に揶揄している。これに対して古代ギリシャでは、デカルトほど徹底していないが、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどが個人主義的で、我が合理的に思考することで真理が得られるとしている。キリスト教の影響で中世には古代ギリシャの個人主義的、合理主義的な思想傾向は鳴りを潜めたが、ルネッサンス以降、復活、拡張し現代に至っている。デカルトは古代ギリシャに端を発する西洋思想圏にある。

 現代世界の仕組みをみれば、近代西洋的な我が圧倒的に支持されており、人権思想などは我の重要性、優位性に配慮しないと十分に機能しない。科学や技術の目覚ましい進歩も覚束ない。だが、その一方で、古代インドや古代中国の賢人たちが説くように、我を過大評価することが苦悩や諍いに繋がっている。産業と科学技術が飛躍的に進歩し生活は格段に豊かになり、不完全とは言え人権思想が広がっている現代、その割に人々は幸せになっていない。先進国ですら人々は常に不満と苛立ちを抱え、急き立てられて詰まらぬことで諍いを起こす。自由を求める一方で、犯罪や感染症などは徹底的に封じ込めることを要求する。相矛盾する思いの中で右往左往している。その根底には近代西洋の我が在る。中国や途上国が西洋に反発する理由もそこにあるのではないだろうか。

 「我思う故に我在り」の「我」は世界を豊かで自由にした。しかし。その一方で人を悩まし苦しめている。近代的人間は我であるしかないがゆえに、豊かで貧しいとも言える。そして、我を解消しようとする思潮や試みも決して消えることはない。


(2024/3/3記)


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