☆ 理屈と屁理屈 ☆


 理屈と屁理屈は違う。理屈は理に適った説明だが、屁理屈は一見もっともらしいが詭弁に過ぎない。

 煙草が癌の原因になることを頑なに否定する者がいる。例えば、こんなことを語る「友人の兄は非喫煙者だったが肺癌になった。友人は愛煙家だが肺癌になっていない。そして僕もなっていない。煙草は肺癌の原因ではない」。だが、喫煙者の方が肺癌リスクは非喫煙者と比較して数倍高い。欧米では一桁高いと言われている。英国では喫煙者が減ったことで肺癌も減った。また煙草に含まれる成分には発癌性物質がある。煙草だけが癌の原因ではなく、また発癌性物質を摂取または暴露した者すべてが癌になるわけではない。問題はリスクであり、疫学調査と化学的分析で初めて評価できる。身近の者の事例だけで発癌リスクを評価することはできない。煙草が癌のリスクを高めることは多くの研究で明らかになっており、このような主張は屁理屈にすぎない。

 だが、理屈と屁理屈を見極めることは容易ではない。命題「pならばq」はpが真の場合はqが真のときだけ真で、pが偽の場合はqが真でも偽でも真になる。だが、そうなると命題「(雪が黒い)ならば(人間は4本足)」は真になる。だが、これはいくら何でも馬鹿げているように思える。「pならばq」という命題はpが真であり且つpの内容とqの内容に関連がある時にのみ意味がある、pが偽の場合はこの命題は意味がないと考えたくなる。むしろ上の命題は「(雪は黒い)且つ(人間は4本足)」という命題と考えるべきで、これなら偽になる。「p且つq」はpとqがともに真のときだけ真になるからだ。

 ところが、「pならばq」でpが偽の場合は数学体系の無矛盾を証明するとき決定的に重要な役割を果たす。数学では真の命題に演繹規則「pならばq」を適用し証明を積み重ねていくことで体系を拡大する。ここで偽の命題pが数学体系で証明できたとする。pが偽の場合、qが真偽に関わりなく「pならばq」は真だから、偽の命題pからは真偽に関わりなくすべての命題qが証明できることになる。すべての命題が証明されるということは、任意の命題pと非p(pでない)が共に証明されることを含意するから、この数学体系は矛盾している。数学で矛盾とはpと非p(pでない)がともに証明されることを意味するからだ。それゆえ、一つでも数学体系から証明できない命題があることを証明できれば、その数学体系が無矛盾であることを証明したことになる。なぜなら、「(数学体系が矛盾)ならば(すべての命題が証明可能)」が成り立つので、対偶を取ることで、「(一つでも証明できない命題が存在)ならば(数学体系は無矛盾)」が成り立つからだ。このように「pならばq」という命題とその真理値はpとqの真偽と内容に無関係に、数学の無矛盾性を保証するために不可欠な論理命題になっている。つまり「pならばq」でpが偽、またはpとqが内容的に無関係の場合でも、この命題には大きな意義があり、屁理屈ではなく理屈に属すると言える。

 だが、この議論に納得がいかない者もいるだろう。確かに「(雪は黒い)ならば(人間は4本足)」はどう考えても無意味または偽にしか思えない。こうなると、理屈と屁理屈の境界は曖昧で何が何だが分からなくなる。プラトンが描き出すソクラテスの問答法、ヘーゲルの弁証法、デリダの脱構築などは屁理屈にすぎないと感じる者は多い。筆者もその一人に属する。しかし案外そうでもないのかもしれない。尤も「本稿そのものが屁理屈だ」と思う読者もいるに違いない。


(2024/2/17記)


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