冬の散歩は寒いだけではなく一寸寂しい。落葉樹は葉を落とし地面を枯葉で埋め尽くしている。枝に残るのは僅かの枯葉だけで、その姿は頭がすっかり薄くなった自分を映しているようで寂しい。老いることを枯れると言うことがあるが、冬の散歩はそれを実感させる。 そう言えば、むかし植物にも心があると言い張る友人がいた。話しかけると葉が微かに動いてそれに応えてくれる、何度も実験して確かめたという。私を含めて周りはみな笑った。でも本人は大真面目だった。常識的に考えて、脳神経系がない植物に心があるとは思えない。とは言え、心の正体は不明で、脳神経系がないと心はないと断言はできない。NHKの特集番組では、科学者たちが植物もコミュニケーションをすることが分かってきたと述べている。もしかすると、笑った私たちではなく友人の方が正しいのかもしれない。 そんなことを考えながら公園の入口に着いたとき、すっかり葉を落とした大きな欅が目に入った。欅を見上げるとふと感じる。もしこの木に心があったらさぞ退屈だろうなと。散歩でよく通うこの小さな公園の木々にはタグが付いていて、ところどころに年が記されている。植樹した年だろうか、それとも記念物に指定された年だろうか。中には、42年などと記された木があり、私よりも年月を重ねている。木はその間、背が伸びるだけで少しも動いていない。退屈で退屈で仕方ないと思う。かと言ってどうしようもない。だから、心があったとしても、人のように短気ではなく、とても辛抱強い。さもないととても耐えられない。 植物には目、耳、口、鼻がない。心があるとしたら、どうやって外界を認識するのだろう。動物や他の植物が触るときは直接感知できるし、風や雨、雪も感じ取ることができる。空気の動きで散歩している人や木々の間を動き回る動物の動きは分かる。声も空気振動だから分かる。光合成するくらいだから、光の扱いは動物よりも遥かに優れている。だから視覚も問題ない。大気中から様々な化学物質を吸収し、また放出しているから、匂いや味も分かる。ただ、動物のように話すこと、鳴くことはできない。でも、その代わりに葉や茎を微かに動かし、特殊な化学物質を放って意思を伝えることができる。どうやら心に必要なものは揃っている。周囲と会話していない時にはじっと黙って思索している。その思索は数学者や哲学者よりもずっと深いに違いない。時間はたっぷりあり、邪念がないからだ。 散歩が気持ちよいのは、植物たちがそっと私たちを見守り、囁きかけてくれているからかもしれない。いまさらながら植物たちに感謝したい。 了
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