☆ 哲学しない時代 ☆


 80年代から90年代前半に掛けて、言論界ではポストモダンが流行り、巷には哲学者気取りが溢れていた。筆者もその一人で、当時ポストモダンの旗手だった柄谷行人の『探究』に触発されてウィトゲンシュタインの哲学書を読み漁った。そして、そこから独自の哲学を編み出した、つもりになっていた。当時書いたメモなどを読み返すと、実に稚拙で論じるに値しない内容なのだが、自分では独創的で価値ある思想を生み出したと思い込んでいた。ウィトゲンシュタインに倣い、哲学とは大学で研究し論文誌に論文を投稿するようなものではなく、実践なのだ、などとほざいていた時期もある。

 筆者の思想なるものが空疎な者に過ぎなかったのは能力からして当然の帰結だが、ポストモダンの思想そのものが恣意的で、曖昧で、奇抜なレトリックの割には内容に乏しいものだった。当時、日本ではフランスの現代思想家の人気が高く、ラカン、フーコー、デリダ、ドゥルーズ、ガタリ、リオタールなどがよく読まれていた。しかし、いずれの思想家も難解で曖昧なところが多く、容易には理解できず、専門家の間でも解釈や評価が分かれていた。ウィトゲンシュタインなども本来は英米哲学の主流である論理分析哲学の潮流に位置づけられる哲学者なのだが、当時はポストモダン風にアレンジされて議論されることが多かった。今、振り返ると、結局のところ、底の浅い流行に過ぎなかったように思える。

 ただ、今でも学ぶべき点はある。それは何か、当時は曲がりなりにも哲学があったということだ。哲学があるとはどういうことか。それは常識や多数意見、権威者の言説を鵜呑みにしないこと、それを批判的に吟味し、それと対極にある思想や主張も考察の対象に加えること、自らの考え方、行動様式に暗黙の偏見があり、それにより世界の見方が歪められている可能性があると反省すること、総じて言えば、健全な懐疑精神と寛容と自己反省能力を涵養し、それを実践することを意味する。古今東西の哲学思想家たちの思想を学び理解するだけでは哲学することにはならない。偉大な哲学は共通する欠点がある、それは間違っていることだ、などという言葉があったと記憶する。そのとおりで、哲学は、数学や物理学のように学んで、それを使えるようになればよいというものではない。間違いの中から、新しいものを見出して、実践することが必要だからだ。その実践の源泉となる考えそのものも、先駆者たちと同様に間違いを含むだろう。だが、それでも、そこから前進することができる。これが哲学なのだ。

 稚拙ではあったし、単なる流行に過ぎなかったことは否めないが、ポストモダンが流行した時代には、筆者を含めて、多くの者が、それと気が付かないままに、哲学を実践しようとしていた。ただ、その思想が浅薄だったこと、自己反省能力が極めて低かったことは認めない訳にはいかない。だからこそ、バブルの反省が出来ず、いま日本は低迷している。哲学者気取りは所詮、気取りに過ぎなかった。

 今は、哲学者気取りはいない。右を向いても、左を向いても、独善論者ばかりが目立つ。瞬時に情報が伝わるネットの普及で、その傾向が加速されている。国内外で社会の分断が深まっている。社会の分断が進む最大の要因は政治経済的なものだが、哲学の喪失もその一因になっている。それは日本だけの現象ではなく世界の趨勢だと言ってよい。これに対して、哲学は曖昧で間違いを含むがゆえに、意見が分かれ対立が生まれる、それがいまの時代なのではないのかという異論があるかもしれない。しかし、そうではない。先に述べたとおり、今あるのは独善論だけで哲学ではない。哲学があるとは、独善論が蔓延することの対極にある状況を意味する。いまこそ、哲学することを思い出し、哲学しない時代から脱却する必要があると考える。


(2022/11/25記)


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