☆ 分かりやすい哲学を ☆


 20世紀を代表する哲学者と言うと、日本ではウィトゲンシュタインとハイデガーを挙げる者が多い。日本に限らず、欧米の多くの国でもこの二人の評価は高い。1999年に発行されたタイム誌の企画「20世紀の100人」では、哲学者としてただ一人ウィトゲンシュタインが選ばれている。

 だが、二人とも、一般読者が気楽に読める著作を書いていない。専門家はウィトゲンシュタインの『論考』とハイデガーの『存在と時間』を20世紀を代表する哲学書だと言う者が多いが、どちらも難解で一般読者に通読できるものではない。筆者も高校生のころ、『論考』を初めて手にしたときには、最初のページで挫折した。解説書は多数あるが、解説書自体が難しく、しかも解説者によって解釈が異なっているので頼りにならない。

 カントやヘーゲルを代表とするドイツ観念論が典型だが、哲学書と言えば難解で、しかも意味が不明瞭という評判がある。数学の専門書は難解であることは哲学書を凌ぐが、論理は明快で、専門家の解釈が分かれることはない。要するに懸命に勉強すれば誰でも理解できる。また解析学や幾何学、代数学、統計学・確率論、計算理論などは実用的な目的でも大変に役立っている。それに比べると、哲学書は難解で曖昧、実用性が乏しく大多数の一般読者から敬遠されている。『論考』や『存在と時間』が20世紀を代表する哲学書と言われるようではそれも無理もない。

 筆者はウィトゲンシュタインのファンなのだが、ウィトゲンシュタインが20世紀を代表する哲学者だというような考えは好ましくないと思っている。ウィトゲンシュタインは哲学の専門家や哲学愛好者向けの哲学者であり、一般読者向けの哲学者ではない。専門家ならば、その著作から人生や現代社会への教訓を読み取ることができるかもしれない。だが一般読者にはそのようなことは期待できない。ウィトゲンシュタイン自身がそのようなことを期待していない。

 哲学は、本来、誰もが関心を持つ問題を扱う。「いずれ誰もが死んでいく。ならば生きることにどのような意義があるのか。」、「生とは何か、死とは何か、如何に生き、死んでいくべきなのか。」、「なぜ人を殺していけないのか。」、「人間以外の動物の生命や自由を奪う権利が人間にはあるのか、あるとしたらその根拠は?」「富を増やすことが、人にとって、人類にとって幸福なのか。」、「正義とは何か、善とは何か。」、「民主主義は本当に良い社会体制なのか。」、「物理学の究極法則が発見されれば、あらゆることが説明できるようになるのか。」、「人間の知能はAIと同じなのか。」、「科学は万能なのか。」、「宗教の意義は何か。」、「技術とは何か、人間社会における技術の役割は何か。」このような問題には、多くの者が関心を持つだろう。そして、このような問題こそが哲学の問題なのだ。さらに、「クローン人間を作ることは許容されるか。」、「動物からの臓器移植は倫理的に問題ないのか。」、「自動運転自動車が事故を起こしたら誰の責任か。」、「新型コロナなどの感染症拡大防止のために自由を制約することがどこまで許されるか。」など近頃話題になっている問題でも哲学的な考察が欠かせない。

 本来、私たちが日ごろ感じている疑問や不安を、それを取り上げて議論することに哲学の神髄がある。だとすると、哲学は分かりやすく、誰でもが議論に参加できるようなものでなくてはならない。実際、そのような例として、多数の者の命を救うためには一人を犠牲にしてもよいのかということを問う思考実験「トロッコ問題」(注)を取り上げることができる。トロッコ問題は誰もが議論に参加することができる。クローン人間や脳死の問題についても誰でも議論に参加できる。旧統一教会に絡んで盛んに議論されている信教とカルトの問題も哲学的な議論と言ってよい。こういうことにこそ哲学は関与するべきで、そのとき初めて哲学は広く一般市民が共有すべき知的遺産となる。「ウィトゲンシュタインやハイデガーのテクストをどう読むか。」などは哲学専門家の狭いコミュニティにおいては大きな意義を持つが、一般市民には縁遠い世界でしかない。哲学者には狭い世界から飛び出すことを期待したい。
(注)列車が暴走して、このままでは線路作業員5名が死亡する。線路を切り替えれば、5名は助かるが、切り替え先の線路で作業中の1名が死ぬことになる。5名を助けるために線路を切り替えることは許されるか、という問題。さらに、線路を切り替えるのではなく跨線橋の上から大きな男を突き落とせば、列車が止まり5名は助かる。男を突き落とすことは許されるか、という別バージョンの問題もある。そして、被験者の反応を見ると、前者の例では許容されるという意見が多いが、後者では許容されないという意見が増える。論理的には同じパターン(1名を犠牲にして5名を助ける)であるにも関わらず、意見が分かれる。さらに次のような問題もある。今すぐに臓器移植をしないと死亡する者が5名いる。一人の男を死に至らしめて、その臓器を5名に移植することで5名が救われる。これを実行することは許されるか。これも5名を救うために、1名を犠牲にするという点では前の事例と論理構造は共通する。だが、ほとんどの者はこれを許容しない。トロッコ問題は、倫理的な問題は、単に問題の論理構造だけでは決定できないことを示唆している。


(2022/10/21記)


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