日中国交正常化から半世紀が過ぎた。半世紀前、筆者は高校2年生だった。何も知らない未熟な若者だったが、当時は国内外で左右両陣営が激しく対立する時代、政治にはそこそこの関心があった。だから当時の政治的な出来事は割とよく覚えている。 1972年は日中国交正常化の他、沖縄返還、佐藤内閣から田中内閣への政権交代と大きな政治的イベントがあった年でもある。政権交代はすんなりいったわけではない。佐藤栄作首相は福田赳夫を後継に指名した。これに対して、田中角栄は日中国交正常化の実現を公約に三木武夫と大平正芳の支持を取り付け、佐藤のライバルだった河野一郎の後継者である中曽根康弘がそれに合流することで、福田に対抗した。当初は、佐藤が推す福田が優勢という声が多かった。筆者の学友の一人が、「福田だろうと思うが、田中に遣らせてみたい。」と言っていたのを思い出す。筆者も同じ思いだった。しかし、勝者は田中角栄だった。これを多くの国民は歓迎し、田中内閣発足当時の支持率は高かった。田中角栄は大学を出ていないにも拘らず、東大や京大など学歴社会の頂点に立つ大学出身者が占めてきた首相の座を射止めたことで、今太閤と持て囃された。そして、就任早々、日中国交正常化を成し遂げ田中人気はさらに盛り上がった。実際、これは大きな功績で、親台湾派だった福田赳夫が首相だったら、このように早く日中が国交正常化することはなかった。また、著作『日本列島改造論』も大いに売れた。日本列島改造論は壮大な計画で、実現していれば地方経済は大いに発展し、今のように過疎化に悩まされることもなかっただろう。 しかし、誰もが田中角栄を歓迎していたわけではない。一緒に暮らしていた母方の祖父は「田中は金に汚い。田中が首相になるとは世も末だ。」と田中を嫌い、嘆いていた。祖父は、田中首相就任の翌93年に亡くなった。オイルショックが起き、物価が高騰し、スーパーからトイレットペーパーが姿を消した年に当たる。物価高騰は激しく狂乱物価と言われ、田中内閣の支持率は急落した。さらに、その翌年、田中角栄は金脈問題が追及され退陣を余儀なくされる。その後、自民党副総裁の椎名悦三郎による裁定で三木内閣が誕生し、田中はロッキード事件で刑事訴追されることになる。田中は優れた才覚の持ち主で実行力も高かったが、祖父の言う通り金に頼りすぎることで墓穴を掘ったと言えよう。尤も、東大出身者や二世議員などが、学友や先代からの伝で政財官の幹部と繋がり社会全体を動かすことができるのに対して、そうした人脈を持たない田中角栄が頂点に登るには、金と優れた人心掌握術に頼るしかなかったと同情する声もたくさんあった。田中角栄は人間らしい政治家だったとも言える。 あれから半世紀、日本は大きく変わった。70年代前半からバブル崩壊に至るまで、ちょうど筆者の青春時代が日本の絶頂期だったという声がある。確かに、活力はあった。沖縄返還、田中内閣誕生、日中国交正常化などの政治的なイベントは、良くも悪くも日本社会が前進しているという感覚を人々に与えていた。それが、社会全体の活力に繋がっていた。しかし、今、日本は全体に後ろ向きになっている。少子高齢化が進んでいる現状を考えれば、それはやむを得ないことかもしれない。また、半世紀前が良い時代だったと考えるのは間違っている。当時、日本全国で、多くの人が公害に苦しみ、その一方でロッキード事件など大規模な汚職事件が頻発していた。今ではありえないような男女差別、障がい者差別、同性愛者差別、外国人差別などが罷り通っていた。それらの点では今の方がずっとよくなっている。とは言え、あの時代を生きた者の感想としては、今の日本は活力を失っており、半世紀前に学び、そこから得るものはあると思われる。 了
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