部屋の片づけをしていたら、38年前の写真がでてきた。若い!私が29歳の時の写真だ。鏡に自分の顔を映すことが怖くなったが、見比べると老いさらばえたとは言え、それは私の顔に間違いなかった。亡くなった父と今93歳の母の写真もある。三人そろった写真が見当たらないので、両親の写真を私が、私の写真を父親が撮ったのだろう。こちらも50を過ぎていたとは言えまだまだ若々しい。 懐疑論に過去の実在を疑うというものがある。実在するのは現在だけで、過去とは想像に過ぎないとするものだ。写真はこの懐疑論への反論になる。今の私と写真に写る私、同一人物であることが私には分かる。周囲の者でもたいていは分かる。そして、今の私と写真の私が大きく違うことも分かる。このことは過去が想像ではなく事実であることを示唆する。もちろん、これは厳密な証明ではない。だが、過去の実在を疑うことは無意味だと言うことはできる。 ここで重要なことはビデオではなく写真でなくては駄目だということだ。ビデオに映る人物も確かに今いる誰かと同一人物であり、同時に今とは大きく違うことも分かる。だが、ビデオには時間軸がある。そのためにビデオは現在に接続することができる。それゆえ、現在に広がりを持たせることで過去の実在を論理的に否定することができる。いっぽう、写真には時間軸がない。だから、写真は現在と接続することができない。その意味で、写真はまさに過去を示す。報道写真が報道ビデオにはないインパクトがあるのもこのためだ。 日常生活においても、写真にはビデオにはない良さがある。それはいつまでも撮影された瞬間を好きなだけ眺めていることができるということだ。ビデオでも再生中に停止することで、ある瞬間だけを目に留めることができる。だが前後があることが分かっているから、気の向くままにそれを眺めているという訳にはいかない。すぐに停止を解除して再生を再開することになる。 過去のある瞬間、それを収める写真は永遠を映すものでもある。「写真が過去を永遠なるものとして表現することは、現在があるから可能なのだ、永遠などというものはなく、過去は現在に依存する」という反論もあろう。だが、反論はビデオには的中するが、写真には当てはまらない。写真は無時間的な存在だからだ。たとえ、見ず知らずの者が写っている写真でも、風景画でも、それは瞬間であり。永遠であり、それが今ではないことが常に了解されている。それゆえ、写真は過去を表現し永遠を示唆する。 了
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