斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』が一昨年、ベストセラーになって以来、脱成長論が話題になっている。 脱成長論者には様々な思想の者がいるが、経済成長社会では環境問題と格差の問題は解決できないと主張する点で共通している。経済成長社会とは資本主義社会とほぼ同じ意味だと言ってよい。そこでは、経済成長が社会の進歩に欠かせず、マイナス成長は社会の衰退をもたらすと信じられている。この経済成長社会そのものに真っ向から異議を申し立てるのが脱成長論だ。脱成長論者によると、経済成長というシステムとそこで再生産される思想に囚われている限り、環境問題や格差の問題は解決されない。大量生産・大量消費を土台に経済を成長させることが人々に幸福をもたらすとする思想を解体し、「節度ある豊かな社会」、「経済成長なき繁栄」を目指す必要があると脱成長論者は提唱する。それゆえ、脱成長論者はSDGsを支持しない。SDGsは既存の経済成長社会を維持しながら環境問題や格差の問題を解決しようとするアプローチだからだ。脱成長論者にとっては、資本主義的な経済成長システムと、環境保全や格差解消は両立しない。人間にとって本当に大切なのは後者であり、そのためには経済成長を捨てる必要がある。脱成長論者はこう主張する。たとえば、斎藤氏は、マルクスの晩年の思想は脱成長コミュニズムであると捉え、環境問題の解決のためにはマルクスに倣い資本主義との決別、脱成長コミュニズムの実現が不可欠だと説く。 脱成長論に対しては様々な批判がある。その中には、「脱成長論はマイナス成長論だ」などという短絡的な批判もよく目にする。脱成長論は決してマイナス成長論ではない。経済成長という物差しで社会を評価することを止めることを提唱している。脱成長論者は経済成長を止めたら経済成長社会(=資本主義社会)は崩壊することを認めている。だから、脱成長論者は、経済成長を社会活動の目的とするような体制の抜本的な転換を提唱する。脱成長論をマイナス成長論だとか、成長なしには社会保障は維持できないとか、経済が成り立たないなどという批判は経済成長社会を前提にしており、脱成長論を理解していない。 だが、脱成長論には根本的な問題が二つある。一つは、経済成長社会(=資本主義社会)では環境問題や格差の問題を解決できないという脱成長論者の主張は本当に正しいのかという問題だ。脱成長論者はしばしば熱力学の第二法則を引用して成長には限界があると指摘する。確かに地球は物質的には閉鎖系で、エネルギー的には定常状態で、物質的な生産・消費活動を無限に拡大することはできない。しかし、経済活動の主役を物質的な生産・消費から、育児、教育、介護、看護、医療、コミュニティなどの人的サービスや情報などへと移行させることで、熱力学的な限界に関わりなく経済成長することは不可能ではないように思える。また、格差の問題も経済成長社会の根源的な問題つまり解決不可能な問題ではなく、経済成長の過程で解決の糸口を見いだせる可能性は否定できない。90年ほど前、ケインズは資本の蓄積と技術の進歩で100年後には経済問題は格差の問題を含めてすべて解決し、人々はもはや富の追及を重視しなくなると予言した。もちろん、現時点ではケインズの予想は外れている。しかし、原理的にそれが不可能であることは証明されていない。斎藤氏などは盛んに資本主義と環境問題をデカップリングすることは不可能だと論じるが、証明はできていない。おそらく、そのような証明は不可能だと思われる。 さらに、もう一つの問題がある。それは脱成長論に接した読者は誰でも感じることだが、「そもそも脱成長社会など実現可能なのか」という問題だ。斎藤氏も、他の脱成長論者も、バルセロナの試みなど幾つかの先駆的な事例を挙げるが、脱成長社会を普及させる現実的かつ具体的な方策は示されていない。現実的な方策がないとそれは空想的な産物で終わり、大きな潮流にはならない。 脱成長論にはこのようにいくつかの問題点が指摘される。だが、先進国では経済成長を追求することに疑問を感じる者が増えている。それは先進国の豊かな者の感傷に過ぎないという批判があり、確かに、そういう面もある。だが、物質的な大量生産・大量消費が地球という有限の環境では限界があることは否定しようがなく、いつかは大量生産・大量消費から脱却する必要があることは間違いない。また、80億と言われる世界のすべての人々に先進国の平均的な市民と同じ生活水準を与えるのは至難の業で、公正という観点から先進国の者は物質的な富への欲求を抑制する必要がある。脱成長論は、まさに、そういう現実に目を開かせてくれる。脱成長論はいささか空想的で現実的には機能しないと思われるが、その思想的な背景には確かに現代という時代の現実がある。それゆえ、私たちはそこから学びを得る必要がある。 了
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