☆ ヤクルトスワローズ日本一 ☆


 ヤクルトスワローズ、20年ぶりの日本一、おめでとう。そして、ありがとう。本当に今年は最後の最後までファンを楽しませてくれた。

 それにしても、ヤクルトスワローズは不思議なチームだ。スワローズファンの村上春樹氏はラジオでリーグ優勝を祝福しつつ、「どうせ今年も最下位だろうと思っていたが、優勝した。ヤクルトは予測不能だ。」と語っていた。まさにそのとおり。オープン戦では最下位、神宮での阪神との開幕3連戦は3連敗。球団初の3年連続最下位は確定的に思えた。開幕当初は奥川、高橋は不安定、移籍してきた田口は調子が上がらず、石川と原は不調で戦線離脱、どうみても優勝にはほど遠い陣容だった。ところが、塩見の成長、中村の復調、山田、村上の二枚看板の活躍、リリーフ陣の充実などで、交流戦の頃から調子を上げ、ついに6年ぶりにリーグ優勝を果たし、その勢いで、クライマックスシリーズ、日本シリーズと制覇した。高津監督の選手育成法、采配も光った。その監督術は恩師、故野村監督の「弱い者が強い者に勝つ方法」を実践したとも言える。古田が春、臨時コーチを務め、中村に多くのアドバイスを与えたことも、中村の飛躍に役立ったのだろう。今年の中村は攻守に際立ったプレイを見せた。ある意味、90年代のスワローズが甦った年とも言える。

 ヤクルトスワローズは、78年、広岡監督の下で初優勝を果たし、前年まで3年連続で日本一になっていた阪急との日本シリーズでも、圧倒的な不利との予想を覆して4勝3敗で優勝、日本一になる。だが、その翌年は最下位に沈み、80年代は低迷し、4回も最下位になる。しかし、80年代半ばから、のちの主力選手、池山、広沢、飯田、古田などをドラフトで獲得し戦力が充実、さらに87年のホージー旋風で人気も上がり、野村監督の下で92年に2度目の優勝を果たす。日本シリーズでは当時最強の西武相手に、これも圧倒的な不利を予想されながら、3勝4敗と善戦。翌年も2年連続で優勝し、日本シリーズでは、西武に4勝3敗でリベンジを果たす。その後も、95、97、01年と3度、リーグ制覇、日本一に輝いた。しかし、その後、チームの柱である古田の衰え、石井一久、岩村など主力の大リーグへの移籍などもあり、00年代半ばから低迷するようになる。11年には最後まで中日と優勝を争うも敗れ、13年、14年は連続最下位に落ちる。15年こそリーグ優勝するが日本シリーズはソフトバンクに圧倒され1勝4敗で終わる。翌年は5位、翌々年の17年は球団ワーストの年間96敗を喫する。さらに、19年、20年と連続最下位に終わる。ところが、まさかの今年の日本一だ。兎に角ヤクルトスワローズは調子の波が大きい。93、95、97年の日本一の翌年はいずれも4位に終わっている。本当に予測不能なのだ。

 だが、まさに、これがヤクルトスワローズというチームの伝統で魅力だ。来年はあっさり最下位に戻る可能性があるが、そこが予測不能で楽しい。団体競技の楽しさは、選手はかわってもチームは存続するというところにある。スワローズはヤクルトに経営権が移った70年、33勝92敗5分けで断トツの最下位。勝率は3割に満たず球団ワーストを記録している。16連敗も喫し、これは引き分けのない純粋な連敗記録としては今でも日本記録になっている(ロッテの18連敗は途中に引き分けがある)。当時高校1年の筆者は巨人ファンの友人に「ヤクルトの勝率は巨人の6番打者の打率より低い、勝利数は本塁打王の本塁打(王の47本)より少ない。」とからかわれた。事実なので言い返すことができず悔しい思いをしたことを覚えている。「ヤクルトの優勝は、20世紀中は絶対にない。いや、永遠にない。」とも言われた。それだけに、78年の初優勝と日本一の喜びは格別だった。当時、23歳、社会人になる一年前、院生のときのことだった。社会人になった80年代、日本経済の安定成長期、バブル期には、ヤクルトスワローズは低迷、バブル崩壊後、強くなる。このように、団体競技のファンは自分と時代とチームのことを連動して記憶に残し、それを語り継ぐことができる。筆者にとって、ヤクルトスワローズの歴史は自分史かつ日本史でもある。

 頂点に達したことで来年は新たな目標を見つけるのが難しい。今年よりもはるかに苦戦するであろうことは、容易に予想がつく。日本一になったとはいえ、2ケタ勝利を挙げた投手がおらず、3割打者もいない。調子が落ちれば一挙に低迷する。奥川、高橋、金久保などの若手のさらなる成長と躍進に期待したい。是非、来年も、筆者の予想(Bクラス)を裏切ってもらいたい。


(2021/11/28記)


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