☆ 投票は難しい ☆


 「投票に行こう」、「選挙に行こう」選挙が近づくと、こういう標語をよく目にするようになる。

 間接民主制において選挙は最も重要な政治的行事で、投票は国民の権利であり、民主制を守るための義務と解釈されることもある。事実、オーストラリア、スイス、シンガポールなどでは義務投票制が定められ罰則もある。義務投票制がよいとは考えないが、相応の理由がない限り、投票を棄権することは望ましくない。

 とはいえ、政治家の選挙の投票には固有の難しさがある。タレントの人気投票ならば、自分の感性や直感で決めればよいから、迷うことがあっても難しくはない。だが、政治家の選挙はそうはいかない。感性や直感ではなく、理性的に、候補者と候補者が所属する政党の政策と実績、候補者が信頼に足る人物であるかを評価しないとならない。

 だが、現実には、それは極めて難しい。選挙になると、候補者は選挙民の歓心を買うような公約を掲げることが圧倒的に多い。ルソーは、イギリスの間接民主制を皮肉り、「イギリス人は自由だ。ただし選挙の間だけ。」と言っている。公約をそのまま信じて投票すれば確実に失望する。実績の評価も難しい。新人の場合は期待しかない。現職ならば実績を評価しやすいが、それでも評価の妥当性を判断することが難しい。たとえばアベノミクスの成果を高く評価する者もいれば、全く評価しない者もいる。中国に友好的な者を評価する者もいれば、評価しない者もいる。さらに、信頼がおけるかどうかは全く分からない。友人や親類でも「まさか、そんなことをするなんて!」と驚くことがある。況や全く付き合いがない政治家が信頼できるかどうかなど分かるはずもない。だから、当選後、収賄罪で逮捕されるような人物が多数の票を集め当選することは珍しいことではない。

 結局、とことん真面目に考える者は投票ができない。あるいは白票を投じるしかない。「そんなことを言わずに、一番マシだと思う者に投票しなさい」と言われる。だが、誰が一番マシか、どの政党が一番マシか、という判断ができない。「政権政党が良い政治をしているかどうかを評価し、良いと思えば政権政党の候補者に、悪いと思えば野党の候補者に投票したらよい」と言われることもあるが、政権政党の政治が良いかどうかの判断も、野党が伸長したら政治が良くなるのかどうかの判断もできない。どう考えても同じことになる。結局、最後は、タレントの人気投票と同じような感覚で投票するしかない。

 もしソクラテスが現代に生きていたとしたら、たとえ罰則があっても投票にはいかず、投票日に公園で若者たちと哲学しているだろう。真の哲学者は選挙人にも被選挙人にもなれない。間接民主制は自由と権利を守るためには他の政体よりも優れている。だが、その土台は脆弱と言わなくてはならない。


(2021/10/22記)


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