環境問題は今や現代世界最大の課題になりつつある。課題解決に向けての提言は数多あるが、その多くは経済と環境を両立させることを目指している。だが、それには異論がある。経済の発展と共に人類は自然を蹂躙してきた。森林は伐採され、河川、湖沼、海洋、大気、土壌は汚染され、乱獲や生息地の消滅で多くの生物種が滅びた。その背景には、利潤を追求する貪欲な資本主義の存在がある。もちろん、こういう考え方はステレオタイプなものであり目新しいものではない。だが、環境問題が喫緊の課題となることで、このような思想を無視することができなくなっている。 温室効果ガス削減のために自動車をすべて電気自動車あるいは二酸化炭素を発生しない燃料自動車に置換するという。だが、自動車の数を減らすことは想定されていない。むしろ、経済成長を目指すために、より多くの自動車を生産し売ることを目論んでいる。発電所で再生可能エネルギーの使用が増えている。しかし、電力消費を減らすことは余り重視されていない。省エネ技術は進歩しているが、途上国の発展やIT機器などが普及したことにより世界の電力消費量は依然として増え続けている。 環境を守るためには、自動車、電力消費量を大幅に減らす必要があるのではないだろうか。だとすると、経済成長を促しながら、環境問題を解決することはほとんど不可能だということになる。それに対して、途上国は人々の生活をよくするために経済成長が欠かせない、だから経済成長は絶対に必要だという反論がある。しかし、先進国と途上国で富を再配分することで問題は解決可能であると思われる。もちろん、そのためには先進国の人々は浪費を止め、消費を我慢する必要がある。先進国では飽食で健康被害が起き、フードロスが拡大し、莫大な量のごみに悩まされている。つまり、我慢する余地は十分にある。むしろその方が健康になる。それにより全体として経済を横ばいあるいは縮小させながら、富の偏在を解消し、貧困を撲滅することができる。そして、それらを通じて環境を保全するというのが唯一の可能性ではないだろうか。斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』がベストセラーになったという事実は、人々が資本主義の下では環境問題解決が困難であることを感じ取っている証であるようにも思える。そして、このような思想が悲観論ではなく、現実的な提言となりえる素地は揃ってきている。ただし、現実問題とすると、脱資本主義、脱成長は、政治的にも経済的にも極めて難しい。現代の政治経済体制は資本主義を絶対的な前提として構築されており、簡単には転換など出来ない。斎藤氏なども現実的な解決策を提示しておらず、期待の表明だけがなされている。つまり、現実的には、脱資本主義、脱成長は当面は不可能で、資本主義を維持したままで環境問題と対峙しなくてはならない。 そこで人々は科学と技術に期待することになる。科学と技術の力で経済と環境問題を同時に解決する、これに多くの人々が期待を抱く。その現れがすでに極端な科学技術信仰に繋がっている。大気中の二酸化炭素を回収して海底や地底に貯蔵する、あるいは光合成などで再利用する。巨大な太陽光パネルを静止軌道に打ち上げ、太陽光発電による電力をマイクロ波で地上に送る。月や火星に居住地を建設する。月や火星で希少元素などの資源を発掘し地球で利用する。このような夢の技術がネットや雑誌などに溢れている。だが、いずれも実現は困難で、実現できたとしても環境問題、経済問題の抜本的な解決には繋がらない。さらに、それらの新技術が新しい環境問題を引き起こす可能性もある。科学と技術の力で環境問題を解決できると楽観することは出来ないし、そのような楽観論は却って環境問題を軽視することに繋がる。 恐らく、現代人の多くが考えている以上に事態は深刻になっている。人類はすでに余りにも自然を破壊しすぎた。どのような科学も技術もそれだけでは、自然を元に戻すことは不可能で、資本主義を支える大量生産・大量消費を放棄しない限り、環境問題の解決はない。人類絶滅は昔からあるSFのテーマだが、絶滅まではいかずとも、大きく衰退する可能性は決して低くない。しかも、それが案外遠くない将来に訪れるかもしれない。 了
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