☆ 哲学を学ぶ意義とは ☆


 哲学を学び、哲学的な問題を考えることの意義は何かと問われると答えは様々に分かれる。意義などない、趣味に過ぎないと答える者もいる。だが、哲学で食べている者がいるのだから、趣味以上の何かがあってしかるべきだろう。

 では、それは何か。私見だが、反省することが哲学の一番の意義だと思う。日々の生活の中で、私たちは反省することは少ない。忙しない現代、反省している暇などないと言う者もいる。哲学者を含めてほとんどの者は、常識や過去の体験に従い、条件反射的に判断し行動している。だからこそ、その場その場で迷うことなく迅速な行動をとることが出来る。横断歩道で信号機をみて、「「青が渡れる」を意味する根拠は何か」、「あれは本当に青なのだろうか、赤ではなく青である根拠は何か」、「よく見ると緑なのになぜ青というのだろう」などといちいち考えていたら、永遠に横断することはできない。

 それゆえ、ときとして、誤謬や錯覚が生じる。不適切、失礼な振る舞いをして、他人を傷つける。そして、しばしば同じ失敗を繰り返す。反省していないからだ。だからこそ、哲学を学び、哲学的な問題を考えることに意義がある。哲学は確実に反省を促す。

 尤も、哲学の課題は「存在とは何か」、「帰納法をどうすれば正当化できるか」、「外界と内面という区別に意味があるか」、「アプリオリな総合判断は存在するか」など日常生活や仕事にはほとんど関係がないものが多い。それゆえ、直接、人々に反省の仕方や反省すべき時を教えてくれるわけではない。だが、哲学を学ぶことは、私たちの常識が間違っていたり、根拠に乏しいことがあったりすることを教えてくれる。

 たとえば、30年前、LGBTへの差別は差別と考えられていなかった。当時LGBTは病気あるいは恥ずべき性癖だと信じられ、嘲笑の対象だった。だが、今ではそれは正しくないことを多くの者が認識している。では、なぜ人々の考えは変わったのか。半世紀前、私が学生の頃から、(当時はそのような言葉はなかったが)LGBTの権利を主張する者が存在した。雑民党を作った東郷健などは選挙にも出馬し有名な存在だった。だが彼の言葉に耳を傾ける者はいなかった。そして、LGBTの人々は差別され苦しみ続けた。

 しかし、「LGBTへの嘲笑は正当なものなのだろうか?」と哲学的に反省することで流れは変わった。科学がLGBTは病気ではないことを証明したことで人々の考えが変わったという者がいるが、それは違う。LGBTが病気か正常かは科学で証明できることではない。それは社会の決め事だ。又、たとえ病気だとしても、それは差別を正当化する理由にはならない。LGBTへの考えを変えるためには倫理的、哲学的な反省が不可欠だった。ためしに、哲学の歴史を紐解けば、すでに200年も前に、功利主義の開祖の一人、ベンサムが同性愛を擁護していたことが分かる。「同性愛は誰にも迷惑を掛けず、当人同士は幸せなのだから何も問題はない」というのがベンサムの主張で、すこし考えてみると実に当たり前の意見であり、なぜ気が付かないのか不思議に思うくらいだろう。まさに、ここに哲学を学び考えることの意義がある。

 ただ、不思議なことに、偉大な哲学者と言われる者には、独りよがりで、不寛容で、変人で、好ましくない人物が多い。筆者はウィトゲンシュタインの哲学思想のファンだが、書物に描かれるウィトゲンシュタインを見る限りでは、絶対に付き合いたくはない。どうも、哲学者と言われる者は、他人の反省を促す書物を著す能力はあるが、それを自らに適用することができない者が多いらしい。哲学を学ぶのはよいが、哲学者に学ぶことは慎重にした方が良い。


(2021/6/4記)


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