ウィトゲンシュタインは、「ライオンが言葉を話しても、理解できないだろう」と言っている。言葉の意味とか理解とかは、公共的なものであり、生活形式が異なる者どうしでは理解ができないという意味だ。 ウィトゲンシュタインが正しいかどうかはここでは議論しない。ライオンが話をしたらどうなるかを考えてみたい。 冬の早朝、動物園のライオン(名前はジョン)が、檻の前に遣ってきた飼育員に話しかける。「壁に穴が開いて寒い。直してほしい」飼育員はどうするだろう。まず自分の耳を疑う。だが空耳とは思えない。とりあえず、いつもどおり、「おはよう、ジョン」と話しかける。すると、「おはよう」と返答があり、再び壁の修理を依頼する声が聞こえる。間違いなく、理解するより前に、飼育員は驚愕するだろう。おそらく、ジョンが話しているのではなく、スピーカーがどこかに設置され、ジョンが話をしているように細工がされていると思うに違いない。どっきりカメラかもしれないと周囲を見渡すかもしれない。だが、それらしき仕掛けは見当たらない。ジョンは話を続ける。「驚いているね。僕は昨日の夜から人間の言葉が喋れるようになった。僕も最初は信じられなかった。」飼育員は、同僚を呼びに行き話をする。同僚はもちろん信じない。だが、檻の前にきて、事実であることを知る。動物園では大騒ぎになる。何を調べても細工がなされている様子はない。ついに、ジョンは本当に話しているという結論に達する。そして、飼育員たちは檻の壁を調べ、確かに穴が開いており外気が入ることを知り、ジョンの希望通り壁を修理する。 こんな風に話が進むことが想定される。果たして、飼育員たちはジョンを理解しなかったのだろうか。いや、ジョンの言っていることを理解して壁を修理したと考えるのが妥当だろう。だからと言って、ウィトゲンシュタインが間違っていた訳ではない。ウィトゲンシュタインは動物を理解できるかを問題としているのではなく、心、言葉の意味、言葉の理解について考察を続けるなかで、一つの例としてライオンを引き合いに出したにすぎない。それは、この言葉が残されている未完の著作『哲学探究第二部(心理学の哲学−断片)』の前後の文章を読めばすぐに分かる。つまり、これはレトリックなのだ。 だが、飼育員たちは本当にジョンを理解したのだろうか。いくら言葉を話しても、ジョンを人間と対等な存在とは認めない。ジョンが銀行口座を持ちたいとか、皇居の周りを一人で散歩したいとか言っても許可しない。たとえ言葉が話せても、動物と人間の間には大きな壁がある。 ところで、本当に動物が話を出来たら、人は喜ぶだろうか。愛犬や愛猫が話が出来たら嬉しいと思う愛犬家や愛猫家はいるかもしれない。だが、ほとんどの者は当惑し警戒するだろう。ジョージ・エリオットは「動物は気持ちの良い友達だ。質問もしなければ、批判もしない」と言っている。言葉を話せたら、動物たちは人を批判したり質問したりするに違いない。「昨晩の食事は不味かった」、「なぜ、毎朝、散歩をしなくてはならないのか」などと。これは厄介だ。たぶんペットを飼う者は大幅に減る。人間と動物の間に大きな壁があることは良いことなのかもしれない。 了
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