政治哲学という分野と政治学という分野がある。筆者は、両者をこんな風に理解している。政治哲学は、「政治とはそもそも何か」、「政治を成立させる土台は何か」、「あるべき政治の姿はどのようなものか」など、政治の根底に在るものを哲学的に探求する。政治学は、現代および過去の政治や政治体制の性格や問題点を整理し、その背景や解決策を探索する。たとえば、米国の政治哲学者ロールズの『正義論』は典型的な政治哲学の著作で、政治の理念が高らかに謳われている。『正義論』は日本を含めて世界中で広く読まれ、その思想は広く支持されている。しかし、現実の政治はそれにはほど遠い。現実主義の政治家や政治学者にとっては、ロールズの思想は理想論に過ぎず、現実の政治には余り役立たないということになる。そして、その現実の政治を考えるのが政治学だと言ってよい。 革新、リベラルなどと呼ばれる左派と、保守や現実主義と呼ばれる右派との間の論争はしばしば噛み合わない。それは、互いに無意識のうちに、左派は政治哲学を論じ、右派は政治学を論じる傾向があるからだ。その結果、左派は右派を人権無視、軍国主義などと非難し、右派は左派を非現実なお花畑論者などと非難することになる。たとえば、防衛省の予算で科学者が研究を行うことを、左派は「平和の理念に反する」と否定的に論じる。それに対して、右派は、「現実を見ろ、そんなことを言っていたら日本を守れない」と左派を空理空論だとして非難する。論じている土俵が違うことに双方とも気が付いていない。 政治を改善するには、政治哲学と政治学の両方が必要になる。理想の御旗を掲げて、いつの間にか敵に囲まれ白旗を掲げなくてはならなくなった者は、いかに高潔な人物だったとしても、愚か者だと言われる。しかし、目の前の現実に拘り、怯えたり、傲慢に振舞ったりする者も愚かだと言わなくてはならない。確かに現実が土台だが、理想も欠かせない。それでは、両者を調和させるには何が必要だろう。 政治家と学者特に政治哲学者は対立することが多い。喫緊の課題に直面し迅速な決断を迫られる政治家と、大局的な観点から思想の構築を目指す政治哲学者では、その使命が大きく異なる。それゆえ、どうしても、対立する場面が多くなる。しかし、対立は無益ではない。むしろ、政治哲学と政治学という異質なものが共に必要であることを証している。そして、そこにこそ解決の糸口がある。政治家はいちいち政治哲学者の言葉に耳を傾ける暇はないし、必要もない。だが、その一方で、その思想には学ぶべきものがあると謙虚になる必要がある。政治哲学者は政治家の行動を厳しく批判してよいし、批判することが望まれる。しかし、その一方で、現実の中で難しい決断が迫られている政治家の立場を理解する必要がある。政治家と政治哲学者は対立する、しかし、互いに相手を尊重する。同時に、相手に尊重されるように努める。そして、この対立する両者の行動や言説を評価し、それを投票や意見表明、デモなどの主体的行動に反映することを通じて、政治家の活動と政治哲学者の思想形成に関与することが一般市民の役目になる。また、このような連携がうまく進むようにすることが報道や言論の役割となる。このような構造がうまく機能するようになったとき、政治の改善が進む。 了
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