人工知能に質問すると、人のように答える。人は人工知能と同じなのか。違う、人工知能は計算しているだけだと答える者がいる。では、人は何をしているのか。ウィトゲンシュタインがいまの時代に生きていたら、こんな問答を残しているに違いない。しかし、人は実際、何をしているのだろうか。 単純な計算ではなく、意味を理解し、意味ある言葉を発する。そして、その過程を心に書き留める。人はこういうことをしているという考えがある。しかし、意味を理解すること、意味ある言葉を発することが、計算に還元できない何かであるという証明はあるのか。ない、証明は計算に還元することができるからだ。つまり計算に還元できない何かがあるとしても、その存在を証明することはできない(注)。しかし、証明できないことは存在しないとは言えない。そこに哲学の可能性がある。 (注)ハイデガーは晩年、哲学はサイバネティクスにとって代わられたと語っている。20世紀の数学により、数学のような明快な証明を哲学に求めることは不可能であることが示された。ハイデガーの言葉はそのことを示していると言ってもよい。 人の知性が計算に還元できるのであれば、哲学は何も新しいことは見いだせない。だが、そのことを証明ではなく、示すことが哲学にはできる。また、計算には還元できない何かがあるとすれば、それを哲学は示すことができるだろう。 だが、そのようなことが本当に可能なのだろうか。これは哲学に諸学の学という地位を、過去の栄光を取り戻そうという不毛な試みではないだろう。数学を数学的ではなく、メタ数学的に語ろうしても上手く行かないことはゲーデルの不完全性定理で示された。およそ明快に語ることができることは数学で表現できてしまう。だからこそ、チューリングマシンの実用版とでも言うべきコンピュータが汎用性を持ち、人工知能へと進化することができる。それゆえ、どのように探究するべきなのか分からない。ウィトゲンシュタインが述べているとおり、語りえぬことには沈黙しなくてはならないようにも思える。しかし、このように思索することに、哲学の意義がある。哲学は何も明確にはしない。だが、明確にはできないことが在ることを、その思索が示す。これは決して無意味なことではない。 了
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