☆ フィロソフィーとは何か ☆


 フィロソフィー(哲学)の語源は、古代ギリシャの「ソフィアをフィレインする」にある。上智大学の英語名はソフィアユニバーシティ。ソフィアとは、上智つまり人を望ましい存在へと導く優れた知恵を意味する。一方、フィレインとは愛することを意味する。フィロソフィーとは、上智を愛すること、フィロソファーとは、上智を愛する者のことを指す。

 フィロソフィーは哲学と訳され、学という語尾が付くことで、しばしば数学、物理学、経済学、社会学などと並ぶ学問の一分野とみなされる。しかし、その語源から明らかなとおり、哲学は、体系的な学問と言うよりも、上智を愛すること、つまり、人の生の在り方、姿勢を示すものと考えられる。

 哲学については、しばしば、無意味、役に立たない、科学の前段階、古臭い思想などという非難がなされる。だが、それは、哲学を物理学などと並ぶ学問だと考えることからくる。哲学は、客観的で理論的な体系を求める物理学などと同じ意味での学ではない。理論体系ではなく、真善美を求め、世界を、そして過去を理解し、未来を展望する思考作用、それを求める精神を示すものと解釈される。

 そう考えれば哲学、つまりフィロソフィーの意義が分かってくる。カントやヘーゲルを読めば、そこには明確な誤り、到底承服しがたい言説が溢れている。しかし、それでも、そこには、思考の力で世界を理解し未来を展望しようとする意志を読み取ることができる。確かにマルクスが指摘する通り、思考で世界を理解し未来を展望するなどということは幻想に過ぎない。ニーチェが言うように、そこには現実を肯定する力を欠く弱者のルサンチマン(復讐心)が隠されているかもしれない。しかし、それでも、フィロソフィーは人の本質にかかわる存在で、日ごろ関心を持たない者でも、ときとしてフィロソフィーに惹かれる。それは人が真善美の根源を知ろうとする存在で、フィロソフィーに自分の似姿を見るからだ。フィロソファーを学ぶ必要はない。学んだところですぐに役立つものではない。それでも、人はフィロソフィーに興味を持ち続ける。まさに、そのことが人の本質の一部をなすと言ってもよい。


(2019/12/21記)


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