☆ 昭和の終わり ☆


 中曽根康弘元首相が11月29日にお亡くなりになった。享年101歳。ご冥福をお祈りする。

 中曽根は昭和最後の大物政治家で、まさに昭和の終わりを感じさせる。82年、首相に就任した当初は、田中角栄の影響力が強く、田中曽根内閣などと揶揄されたが、徐々に実力を発揮し、3公社の民営化、日米関係の強化などの大仕事を成し遂げた。吉田茂、田中角栄と並んで、歴代の首相の中でも人気が高いが、それも頷ける。

 中曽根の仕事の中でも最も評価されているのが国鉄民営化だ。国鉄は日本の戦後復興に大きな役割を果たしたが、採算度外視の路線拡張、国鉄最大の労組で左翼色が強かった国労のストライキなどで、負債が雪だるま式に膨らみ、国民からも激しい非難を浴びた。80年代には、国鉄の処理が国内政治最大の懸案事項になっていた。

 中曽根と国鉄の関りは70年代に遡る。国労など公共企業体の労働組合の連合体「公労協」は75年にストライキ権の獲得を目指して大規模なストに打って出た。いわゆるスト権ストだ。特に国労と動労は11月26日から12月3日にかけて全面的なストライキを実施。一部地域を除いて、日本全国で国鉄が止まり、人々の生活に大きな影響が及ぶことになる。公共企業体の労働者にストライキが禁止されていたことについては、憲法解釈上でも疑義が多く、スト権を求めて組合が闘争を行うこと自体は決して間違ったことではない。事実、左翼運動が強かった70年代初頭までは、筆者を含めて国労や動労を支持する一般市民は少なくなかった。だが、国労のストは労働者の権利というだけではなく、社会主義実現を目指す社会主義運動という政治的側面が色濃かった。実際、スト権がないにも拘らず、国労などは毎年賃上げとスト権獲得を目指して春闘と称するストライキを実施した。違法ストなので参加者には賃金カットなどの措置がとられる。しかし、カットされた賃金は組合が全額補償し、経営は国労が怖くて人事的な措置(左遷や降格など)をすることができない。それゆえ、組合員はリスクなしでストライキに参加することができた。つまり法的にはスト権がなくとも、実質スト権があった。しかも国鉄職員の賃金などの待遇は世間的に見てもよかった。そのような状況でも、執拗にストライキを実施する国労、動労などには、すべての組合員がそうだったわけでは決してないが、社会主義、それもソ連型の共産主義に近い社会主義実現とソ連との連帯という思惑があった。

 スト権ストが実施されたときの首相、リベラリスト三木武夫は条件付きでスト権を容認する方向で動こうとした。だが、それに強硬に反対したのが当時幹事長を務めていた中曽根だった。タカ派の中曽根にとって、国労のストに屈する訳にはいかなかっただろう。あるいはスト権ストへの市民の支持が広がっていないことを察知し妥協の必要なしと判断したのかもしれない。機を見るに敏であることに関しては、中曽根の右に出る者はいない。結果、スト権ストは世間からの非難を浴び労組側の敗北に終わる。さらに、追い打ちをかけるように、中曽根は国鉄経営者に対して国労、動労へ200億円超の損害賠償請求訴訟を起こすように働きかけた。

 首相に就任した中曽根は、3公社のうち国鉄以外の2つ、専売公社、電電公社を85年に民営化する。これで国鉄の外堀は埋まった。続く86年の衆参同時選挙(通称「死んだふり解散」)での自民党圧勝で内堀も埋まった。国鉄は分割民営化され、平成を二年後に控えた87年(昭和62年)4月のJR誕生とともにその歴史の幕を下ろすことになる。電電公社も臨時行政調査会などでは分割民営化が提案されていた。しかし、民営化後のNTTは分割を免れた。それは電電公社の労組である全電通が政府に協力的で早い段階で民営化を受け入れたことによる。全電通が国労と同様の急進的な組合だったらJRと同じように地域ごとに分割されていたに違いない。電電公社は分割せず、国鉄を分割した目的は、労組の力を弱めるため、つまりは国労を弱体化することにあった。さらに、配置転換を拒否した国労の幹部などのJRへの採用を認めないなどの徹底的な措置を取り、結果、昭和とともに国労もまたその幕を下ろすことになる。当時、国労は日教組と並び、日本最大の労働組合連合体「総評」の中心的な存在だった。国労を失った総評は衰退し、90年代半ばには、日教組も、文部省(当時)との対決路線から協調路線へと転じ、総評もまたその歴史的役割を終えることになる。そして、総評という後ろ盾を失うことで、社会党は衰退し、保守革新対決の時代もまた終わりを迎えることになった。

 こうしてみていくと、中曽根の姿は、後顧の憂いを断つため豊臣家を根絶やしにした徳川家康とダブる。良くも悪くも、その徹底ぶりが、かたや徳川幕府260年の安泰をもたらし、かたや保守革新対決時代から保守中道時代への政治の大転換をもたらした。中曽根の政治が本当に正しかったかどうかはすぐには判断できない。それは百年後の歴史家の仕事だろう。だが、家康が稀に見る優れた武将であったように、中曽根が極めて有能な政治家だったことを認めないわけにはいかない。そして、中曽根は事実上、昭和という時代の終わりを演出することになった。中曽根の死は、そのことを再認識させたと言えよう。改めて、中曽根元首相のご冥福をお祈りする。


(2019/12/2記)


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