「AIとコンピュータはどこが違うの」と子供に聞かれて父親が絶句していた。近頃、AIという言葉がテレビや新聞雑誌で盛んに使われ、ブームになっているが、それが何であるかを理解している者は少ない。筆者も偉そうなことは言えず、子どもにいきなり同じ質問をされたら、知ったかぶりをして、いい加減な答えをしていたに違いない。 今のところ、AI(人工知能)とコンピュータに違いはない。コンピュータで処理されるアプリケーションが、単純な計算ではなく、囲碁や将棋を指す、消費者行動を分析して販売戦略を立てる、外国語を翻訳するなど知的(と思われる)処理であるという点に新しさがあるに過ぎない。その土台は、前世紀の36年にチューリングが提唱したチューリングマシンを具現化したノイマン型コンピュータ(45年に誕生)で、当時からAIという発想は存在していた。つまり、AIそのものは新しい技術でも何でもない。報道や言論、企業がAIという言葉を宣伝に使っているというのが実情だろう。 だからと言って、侮ってはいけない。インターネットが普及し始めたころ、世界を変えると大宣伝をする者がいる一方で、取るに足らない、すぐに消え去るブームに過ぎないと冷ややかな目でみる者も多かった。だが、世界を変えると言えるほどのものではなかったにしろ、社会に広く浸透し、それなしではビジネスや生活が成り立たないほどになっていることは否定できない。AIもインターネットと同じ運命をたどる可能性が高い。 だが、AIがインターネットやスマホのようにビジネスだけではなく日常生活にまで浸透した時に、何が起きるか、あるいは何をなすべきかということについてのビジョンがない。インターネットやスマホが普及すれば、どのようなことが起きるかは想像がついた。だが、人間だけができると信じられてきた知的処理がAIで実現できるようになった時にどうなるか、どうするべきかを考えることは容易ではない。たとえば、機械翻訳や通訳ができるようになった時、外国語を習うことは不要になるだろうか。筆者のように外国語を不得意とする者は、学習をやめてAIに頼るようになる可能性が高い。だが、外国語を学ぶ意義は読書や会話ができるようになるということに限られない。言葉にはそれを使う人々の思想や文化、歴史が反映している。言葉は単なる便宜的なコミュニケーションツールではない。20世紀最大の哲学者と称されるハイデガーは「言葉は存在の住処である」と主張し、終生、言葉に拘り続けた。外国語を学ぶことは、外を知り、それを通じて自らの姿を見つめなおす重要な手掛かりとなる。完ぺきな機械翻訳・通訳ができるようになっても、外国語は誰もが学ぶべき重要科目であり続けることが望ましい。だが、そうなるかどうかは分からない。 将棋や囲碁は、トップ棋士がAIに勝てなくなっても、楽しいゲームであり、人々の興味が薄れることはない。それは、自動車が人間より速いからと言って陸上競技が廃れることがないのと同じと言ってよい。しかし、人は横着で、AIで出来るようになると、どんどんAIを導入して、自分で考えることを止めそうな気がする。算盤を習い、使う者は今でもいるが、電卓の普及で昔より大きく減っていることは否めない。しかし、算盤を使うには電卓を使うより遥かに高い技能と思考力を必要とし、その意義は大きい。統計解析は、近年はほとんどがソフトウェアを使って行うようになっている。その結果、プログラムのミスでトンデモナイ結論がでることがある。間違いは致し方ないとしても、一番の問題は結論の間違いに気が付かないことだ。人手で計算していた頃は、直感的にこの数値はおかしいと気づいたものだが、今は自分で考えないから、おかしさに気が付かない。 AIの進歩は、人間と社会の可能性を拡大する。それゆえ、AIの研究開発に力を注ぐことは意義がある。しかし、考えることを止めた時、人は衰退する。45年ごろにはAIが人間を凌ぐと予言する者がいる。だが、AIが人間を凌ぐのではなく、人間が考えることを止めた結果AIを下回ることになる、そういう可能性もある。AIという言葉に踊らされ、AIとコンピュータの違いを聞かれると絶句する者が多い現実は、その可能性が低くないことを示唆している。 了
|