☆ 憲法を考える ☆


 参院選で改憲勢力は3分の2に達せず、改憲の機運は盛り上がらなかった。そもそも公明党を改憲勢力と呼ぶことが妥当であるかに疑問がある。自民党の改憲案の内容によっては公明党が改憲に反対する可能性もある。それゆえ、安倍政権の支持率が高いと言っても、改憲は容易ではない。だが、護憲派である筆者の目からも、現行憲法とそれを巡る日本の現状には多くの問題があることを認めざるを得ない。それゆえ、憲法と日本のあるべき姿について真摯に議論する必要がある。特に問題となるのが、第9条と衆院の解散権の問題で、ここではこの二つについて論じる。

 憲法9条2項は、戦力の保持と交戦権を否定している。自衛隊は戦力ではなく自衛のための実力組織で2項に抵触しないとの解釈だが、無理がある。自衛のためのものだから、自衛隊が保持する戦車や戦闘機は戦力ではないというのは屁理屈にすぎない。装備自体ではなく、その使用方法で戦力か否かが決まるという考えは成り立たないとは言えないが、それでは核兵器や化学兵器も戦力ではないという解釈が成り立ちうることになる。尤も、自民党議員の一部(大多数?)は、現行憲法でも、核武装が可能だと考えているようだが、核兵器まで容認するようでは、憲法9条は無意味な空文でしかない。ならば、法哲学者の井上達夫が主張するように、9条の改正ではなく、9条を削除した方がましだろう。そして、井上が主張するとおり、9条を削除する代わりに、軍隊を設立する場合は徴兵制を導入しなくてはならないと憲法に書くことで、戦争の歯止めにするというのも一案だということになる。

 半世紀前は、与野党を問わず、自衛隊と日米安保は憲法9条に抵触するという認識があった。だから、社会党や共産党は憲法を守り自衛隊の廃止と日米安保の解消を主張した。一方、自民党は自衛隊と日米安保は日本の安全保障に不可欠で、憲法を改正すべきと主張した。どちらが正しいかはおいておくとして、どちらも分かりやすく合理的な考えだと言ってよい。だが、両院の3分の2、国民投票で2分の1の賛成を必要とする憲法改正は容易ではなく、自民党は憲法解釈を変えることで、自衛隊と日米安保を正当化することにした。一方、野党側も自衛隊を支持する国民が増加するとともに、違憲論が後退し、もっぱら自衛のために活動するという条件で、自衛隊を容認する方向へとシフトした。そして、自社さきがけの連立で村山政権が誕生した時、社会党は自衛隊合憲へと大きく舵を切った。確かに、これらの一連の行動は、現実を最優先するべき政治家の判断としては間違いではない。また、多くの国民が憲法と自衛隊双方の現状維持を望んでいることも事実に違いない。だが、その結果、最高法規としての憲法の権威は大きく損なわれたと言わざるを得ない。憲法は人間が作ったものであり、時代に合わせて解釈を変えてもよいとはいえ、まっとうに読めば9条の条文は自衛隊を認めないと解釈するしかない。時代が変わっても、自衛隊を支持して憲法を変えるか、憲法を守り自衛隊を廃止または大幅に装備と機能を縮小するかのいずれかを選択しないと法体系の一貫性が保てない。

 それゆえ、安倍首相が提唱する9条1,2項を残して、3項に自衛隊を明記するという改憲案には一理ある。だが、それでは2項と3項の間に矛盾が生じ、それを回避するには相変わらず自衛隊は戦力ではなく実力組織であるという屁理屈を言い続けなくてはならず、最終的な解決にならない。2項を削除して代わりに自衛隊を明記すれば矛盾は解消されるが、加憲論の公明党の賛成を得ることができず、国民も賛同しないだろう。要するに、9条問題の背景には、安全保障のために自衛隊と日米安保は必要だが、平和主義の現行憲法は今まで通りの形で残したいという(現実的であり、悪いとはいえないが)日本人のご都合主義がある。そのために、護憲論者も改憲論者も歯切れが悪くなる。その結果、議論が先に進まない。筆者の考えは、「自衛隊は違憲で、いずれは廃止すべき存在であるが、現実の世界を考えると直ちに廃止することは安全保障と極東地域の平和の維持という観点から現実的ではない。憲法が想定するような平和な世界が実現した時には速やかに解散するという条件のもとで、自衛隊の存続を認め、憲法9条は改正しない。日米安保については、一方的に解消するのではなく、米国、そのほか関係国との外交交渉を通じて、段階的に縮小し、いずれは解消する。米国の側から解消するとの通告があれば、そのまま容認し特段の措置は取らない。」というものだが、これについても、多くの異論があり、また実定法としての憲法にそぐわないという憲法学的な批判があろう。いずれにしろ、問題を整理し、憲法学的な観点と現実的・政治的な観点の両面から徹底的な議論、検討が必要であることは間違いない。

 次に衆院の解散権だが、総理の解散権については、現行憲法上は極めて曖昧だと言わなくてはならない。報道は「衆院解散は総理の専権事項」などと言っているが、どういう理屈で総理大臣に解散権があるのか理解している国民は少ない。それもそのはずで、憲法のどこにも総理の解散権は記載されておらず、専門家か専門家の解説を聞いた者でないと、総理の解散権の根拠は分からない。しかもその根拠には異論も多く、根拠と言うより慣習に過ぎないと言っても過言ではない。その根拠とは、7条の天皇の国事行為に衆院の解散が含まれていることにある。天皇は国政上の権能を持たず、国事行為はすべて内閣の助言と承認の下に行われる。そこから、内閣には解散権があり、内閣の意思決定は最終的には総理の意思決定に等しいから(注1)、総理には衆院の解散権があるということになる。
(注1)閣議は総理大臣と国務大臣で構成され、閣議決定には全員一致が必要とされる。しかし、総理大臣は、他の国務大臣が全員反対しても、憲法で明記されているとおり、いつでも国務大臣を罷免する権限があるので、最終的には、常に、自らの意思を内閣の意思とすることができる。そこから、衆院解散は総理大臣の専権事項という論理がでてくる。

 だが、これは常識的に言って、屁理屈としか思えない。天皇には国政の権能はないのだから、第7条に記される天皇の国事行為は形式的なものに過ぎない。それゆえ、それを解散権の根拠とすることには強い違和感を覚える。国会の召集についても同じことが言えるかもしれないが、憲法53条に内閣は臨時国会を召集する権限があると明記されているから、こちらの権限は理解できる。しかも、通常国会は慣例として毎年1月から約半年間と決まっているから内閣の実質的な裁量は小さい。それに比べると、衆院の解散権は根拠が乏しく、総理大臣に無制限の権限が与えられている。

 総理大臣に衆院の解散権を与えることはよくないと言うつもりはない。与党内での対立や与党の過半数割れで、国会が秩序を失い、国民にとって重要な多くの法案が成立しないという事態に陥ったとき、内閣(つまり実質的には総理大臣)に解散の権限がないと国は崩壊してしまう。問題は、憲法上の根拠が不明確であるために、先に述べた通り、実質的に、総理に無制限の解散権限が与えられていることにある。そのため、総理はその気になれば、「今、選挙をやれば勝てる」という時期にいつでも解散ができることになる。参院という歯止めがあるにしても、与党は衆参両院で過半数を占めることが多いから、本当に歯止めになるかは疑わしい。

 確かに解散が正当化される要件を憲法に明記することは難しい。どのような場合に必要となるかをすべて予測することは不可能だからだ。だが、それでも、「今やれば勝てる」で解散ができるようでは民主主義が機能しなくなる恐れがある。政治家たちの良識に任せるでは、余りにも心許ない。内閣の衆院解散の権限を明記し、同時に、解散の要件を緩やかに定める条文を憲法に盛り込むべきではないだろうか。ほかの国の憲法にもそのような条項はないと言われるかもしれないが、日本の民主主義は根付いてから日が浅く、国民の「政治はお上の遣ること」という意識は依然として根強い。安倍政権は、憲法学者や内閣法制局の集団的自衛権違憲論の無視、野党からの臨時国会召集要請の拒否(注2)など、憲法違反という疑義がある行為を連発しているが、それに対する国民の関心は薄い。このような日本の現況を考えるとき、政権与党が暴走することを阻止するためにも、解散権に何らかの制約を課すべきであるように思われる。
(注2)憲法53条には、衆参いずれかで、議員総数の4分の1以上の要請があれば、内閣は臨時国会を召集しなければならないと明記されている。ただ、憲法上、召集の期日が決まっていないことをよいことに安倍政権は召集を拒否している。

 日本国憲法は優れた憲法だと評価するが、このように課題も少なくない。憲法に関心を持ち真摯に議論することが欠かせないことを肝に銘じたい。


(R1/7/28記)


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