社会科学には経済学、政治学、法学、歴史学、文化人類学など様々な分野がある。社会学もその一つだが、他の分野とはかなり異なっている。経済学や法学は研究の対象がはっきりしているし、方法論も概ね確立されている。他の分野も大体は似た状況にある。 しかし、社会学は対象も、方法も確立したものがない。偉大な社会学者としては、マックス・ウェーバー、デュルケーム、ジンメル、ミード、マンハイム、パーソンズ、ルーマン、ブルデューなどの名をあげることができる。しかし、対象も方法もまちまちで統一されたものはない。 社会学には二つの顔がある。まず、デュルケームの『自殺論』のように、特定のテーマについて実証的に詳細な研究を行う学、つまり他の学と同じ実証的な個別科学という顔がある。方や、経済、法、政治、文化などがすべて社会とその活動として捉えられることから、社会学には、社会科学の基礎を研究する学という顔がある。マックス・ウェーバーは、理念型と現実型、価値自由など、社会科学各分野共通に適用可能な学的モデルと方法を提唱した。デュルケーム、ジンメル、パーソンズ、ルーマンなどにも同じような業績がある。生産力に規定された生産関係が現実的・物質的な土台で、その上に政治や法、そのほかイデオロギー諸形態が成立すると主張するマルクスの思想も一つの社会学理論とみなすことができる。ただ、いずれの顔もあまりに多様で、統一的な視点で捉えることができない。そのため、残念ながら、その基礎研究は、社会科学全般の基礎とはなりえていない。 インターネット、スマートフォン、人工知能などの最新のテクノロジーは、社会に大きな影響を与えている。しかし、これらの技術がどのような社会的な意味を持つのか、何が問題なのか、それらについて統一的な視点で議論されることはほとんどない。経済学では、新技術の市場規模や経済成長への寄与、流通の合理化など、もっぱら市場経済を前提とした議論に終始する。法学では、新技術の法的規制の在り方がもっぱら話題となる。政治学では、これらの技術が民主制を促進するか、その反対かなどという聊か紋切り型の議論が多い。それは、これらの学問分野には、確立されたモデルと方法があり、それに基づく研究が主となり、根源的な議論にはなかなか繋がらないからだと思われる。根源的な議論をするには、既存のモデルや方法そのものを吟味することが必要だが、経済学などモデルや方法が確立された学問分野では、普通そのモデルや方法そのものが吟味されることはない。それは確立された学問体系を崩壊させることになりかねないからだ。しかし、新しい技術が社会に浸透していくとき、それを理解するためには既存のモデルや方法では不十分なことが多い。ここに挙げた技術はその典型的な例と言ってよい。それは、エネルギーを制御する伝統的な技術に対して、情報を制御する技術という特性を有し、既存のモデルや方法では対処しきれない。それゆえ、既存のモデルや方法を根源的に吟味する必要がある。つまり、モデルと方法から再構築しなくてはならない。 それを可能とする唯一の学が社会科学の基礎を探求する社会学だと思われる。社会学は、対象も方法も確立しておらず、この課題を解決することは容易ではない。しかし、だからこそ、社会学が唯一の希望なのだとも言える。それは未完成であるがゆえに、多くの可能性を孕んでいる。困難な道ではあるが、社会学、特に基礎分野の進歩に期待したい。 了
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