哲学と工学は対照的な学だと思われている。哲学は抽象的、普遍的な真理を探究する。工学は、アンテナや機械翻訳装置の設計製造など具体的な課題を解決するための具体的な手法を研究する。哲学は書籍や論文、講義録など文字で書かれたテクストが最終的な成果物となるが、工学は、設計図や制作された機械が成果物となる。 言葉の意味の理解を例に両者を比較しよう。哲学は言葉とはそもそも何か、意味とは何か、理解するとはどういうことかを、その根源に遡って考察する。考察に際しては、常識すら疑問に付され、吟味の対象とされる。「机の上にパソコンが置いてある」は、現実世界で、机の上にパソコンが置いてある状況を意味しているというのが私たちの常識だが、哲学では、それすら疑われる。現実世界が本当に実在するのか夢を見ているだけではないのか、「机」や「パソコン」は実在するのかそれは単なる私の想像ではないのか、などあらゆることが吟味の対象となる。一方、工学では、このような思弁的な議論は重要ではない。工学は、開発者や利用者が言葉の意味を理解していると認めるシステムの開発を目標とする。開発者や利用者が、言葉、意味、理解について哲学的に深い考察を理解しているかどうかは問題ではない。便利で実用的なシステムが実現し、そのために必要な方法論が確立すればそれでよい。 現実問題としても、哲学と工学は縁遠い。工学に携わる者は、ごく一部の哲学に興味を持つ者以外は、哲学には興味も知識もない。そして、それで困ることはない。哲学者は、機械、人工知能、遺伝子操作など最新の技術に興味を持つが、それは哲学的議論に必要な範囲に限られ、また、その知識は一般市民のそれとたいして変わるところはない。それで、哲学者も困ることはない。 だが、技術とその基礎である工学の影響力がますます拡大しつつある現代において、両者が全く別々に活動している現状はけっして好ましいものではない。社会と人の生をより良い充実したものにするためには、両者の関係をより深める必要がある。 技術の進歩が社会の在り方を決めるという技術決定論的な思考が広がっている。それほど現代世界においては技術の存在は巨大で、それゆえ、その基礎である工学を理解することなく哲学しても、皮相的な議論に終わるか、懐古趣味に留まる。それは安物の知的アクセサリーに過ぎず、人々の心をつかむことはできないし、度を越えた技術信仰へ抗うこともできない。設計図を描いたり、教科書に掲載された練習問題を解くところまでは求められないにしても、哲学者には、理工学系の大学や高専の教養学部程度の知識を有することが求められる。一方、工学の専門家の多くが、技術の進歩は必ず社会の改良をもたらす、技術は中立でそれが社会にとって良いものになるかどうかは使い方の問題だ、技術が生み出した問題は技術で解決するしかなく哲学など不要だとする素朴な技術信仰に囚われている。しかし、たとえば原爆の使用を専らトルーマンなど一部の為政者の責任と捉えるような単純な思考では、技術を正しく評価し、どのような技術が求められているか、それをどう制御するかという現代社会において最も重要な課題を真摯に議論することはできない。工学の専門家も、古代ギリシャから現代にいたる主要な哲学思想をすべて理解している必要はないが、哲学の主要な課題や、哲学的思考の特徴や方法などについてある程度の知識を有することが求められる。 さらに、より重要なことが哲学と工学の交流を深めることだ。たまに哲学関係の学会の機関誌に工学の専門家のエッセイが掲載されたり、工学関係の学会の機関誌に哲学者が論文や批評を投稿したりすることがある。だがそのような試みはごく一部に限られており、両者の交流を深めるには至っていない。またそういうことに関心を持つ者も多くはない。この状況を打破するために、哲学者が理工学系の大学や大学院で学び、学生と議論し、逆に、工学の専門家が大学や大学院で哲学の科目を受講し、学生や教師と議論することが必要だろう。そこから始めないと交流の輪はなかなか広がらない。そのために、両者の意識改革を促すとともに、制度的に、学びやすい環境を作ることが大切になる。誰でもいつでも容易に興味がある科目を学ぶことができる放送大学などを活用することも考えられる。 いずれにしろ、現代社会においては、哲学と工学が協力して、技術をどのように評価し、何をするべきか、何をしてはならないかを徹底的に議論することが欠かせない。そのためにも、哲学と工学がそれぞれの専門領域に閉じこもり、互いを理解できず、理解しようともしない現状を改善する必要がある。 了
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