いつだろう、「節分の日と言えば恵方巻」というお約束が決まったのは。おかげで、2月3日はどこに行っても恵方巻のオンパレードで、握り寿司やちらし寿司が好きな筆者にとって節分は苦々しい思いをする一日になっている。近頃では、鰻屋まで鰻が入った恵方巻を店頭に並べるありさまで、いい加減にしろと言いたくなる。 別に恵方巻が嫌いなわけではない。むしろ好きだと言ってもよい。実際、節分の日以外で口にすることも多い。要は、街が恵方巻一色になるのが気に入らない。クリスマスにクリスマスツリーを飾ったりケーキを食べたりするのは構わない。正月にしめ飾りを飾ったりおせち料理を食べたりするのも違和感はない。伝統ある行事で、由来は知らないが、時期に適った行事だと納得できる。だが、節分と恵方巻は関係性がピンとこない。 こう言ったら、知人に咎められた。「それは君が古いからだ。昔は節分と言えば豆まきと決まっていて恵方巻を食べる習慣はなかった。君のような頭の固い高齢者は昔を懐かしんで、古い習慣に固執し、新しいものを拒否しがちになる。自らの頑迷さを認識し、心を開けば、恵方巻のよさが分かるはずだ。」同年齢の者にこんなことを言われるのは癪だが、確かに一理ある。母親と父親、母方の祖父母と一緒に、鬼は外、福は内と声を出しながら庭に豆をまいた子ども時代、この人生の黄金期の思い出に、確かに縛られている。 だが、そう反省しても、三つ子の魂百までで、やはり節分の恵方巻には食指が伸びない。筆者を咎めた男だって、昔の思い出に浸って、酒井和歌子ほどの美人は今の芸能界には一人もいないなどと言っている。酒井和歌子は美人だが、今の芸能界にも、新垣結衣、北川景子など彼女に優るとも劣らない美人がたくさんいる。彼も筆者同様に過去に縛られている。尤も過去に縛られ、頑なに節分の日の恵方巻を拒んだり、酒井和歌子が最高の美人だという思いを抱き続けたりするのも悪くないのかもしれない。 了
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