☆ 良書の復刊を ☆


 ウィトゲンシュタインの弟子で、女性哲学者のアンスコムと言っても、ほとんどの人が知らないだろう。彼女の主著『インテンション』(1957年)は翻訳があるが、絶版になっている。古書店でも目にすることがない。彼女が戦後すぐに、米国の原爆投下を厳しく批判したこともほとんど知られていない。

 アンスコムの『インテンション』は、行為の志向説を唱えた哲学史的にも重要な書で、哲学的行為論に巨大な影響を与えている。彼女は、また、近年、カントの義務倫理と功利主義に代わる第三の倫理学として注目を集めている徳倫理学の興隆にも大きな貢献をしている。

 このような人物の主著がなぜ絶版になるのか、理解に苦しむ。確かに、アンスコムを読んでもビジネスに役立つことはなく、収入や企業の利益、GDPを押し上げる効果はない。しかしながら、アンスコムの行為論や倫理に関する考察は非常に鋭く、未だに古くなっていない。

 日本に限られたことではないだろうが、近年の出版業界は、ビジネスや出世に役立ちそうなノウハウ本、人気作家や評論家、人気タレントの小説や評論などばかりに力を入れている。書店も個性を失い、どの書店に行っても、この類の本が目立つところに大量に陳列してある。出版不況は深刻で、少しでも儲けたい気持ちは分かる。だが、はっきり言って軽薄だ。

 アンスコムの本のような良書が誰からも顧みられずに消え去るようでは、出版業界にも、いささか大袈裟だが日本の文化にも期待できない。ケインズは、マルクスとの対比で、資本主義の守護神のように語られることが多い。しかし、彼は、富を求めてあくせく働くことは決して良いことではなく(注)、人生にはもっと大切なことがあると警告している。まさに、その大切なことの一つが、アンスコムの著作のような良書を読むことではないだろうか。それは短期的な金銭的利益には繋がらない。しかし、良き文化を育むことに貢献する。金銭的利益にばかり目を向けず、忘れられている良書を一日でも早く復刊してもらいたい。長期的にはそれが出版業界のためになると思う。
(注)ケインズは、『わが孫たちの経済的可能性』(1930年)で、それを悪しき習慣であるとまで述べている。


(H30/11/18記)


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