☆ 機能的なるものと文化的なるもの ☆


 70年代の学生時代から新宿にはいろいろとお世話になっている。大学から近いということもあり、コンパはたいてい新宿だった。就職してからも最初の勤務地が新宿で、他の場所で勤務していた時期があるものの、通算では新宿で勤務している時間が圧倒的に長い。新宿を第二の故郷と呼んでもよい。

 70年代と比べると新宿は大きく変わった。再開発が進みすっかりきれいなビルに囲まれるようになった新宿駅南口近辺も、80年代の初めまでは、夜になると屋台が並び、一杯やっていると、ギターを持った流しのお兄さんが遣ってきて、一曲歌ってくれたものだった。近くは、飲食店、ディスコやジャズ喫茶など娯楽施設が集まり、ショーウインドーに高価な商品がずらりと並ぶ高級店が集まる銀座や、大企業のオフィスが立ち並ぶ大手町などとはまったく異質な雰囲気に包まれていた。それが、今では、大型店舗が立ち並ぶ現代的なショッピングセンターへと変貌している。

 昔を知る者には、今の新宿は何か物足りない。風情がなくなったとでも言えようか。80年代初めまでの新宿は、自然発生的な「文化的なるもの」が支配していた。それは、国や大企業の戦略に基づきトップダウンで押し付けられる「機能的なるもの」が支配する場ではなかった。機能的なるものは効率を最優先するが、文化的なるものにとって効率は問題ではない。むしろ非効率であるところにその特徴がある。

 文化的なるものが良く、機能的なるものが悪いと言うのではない。資本主義は、機能的なるものを次々と生み出し、その結果、世界は発展し、(富の偏在が著しいとはいえ)多くの人々が豊かになった。日本でも、この半世紀で、街はすっかり綺麗になった。かつて駅のトイレは汚れがひどくて入ることが躊躇われた。しかし、最近ではすっかり清掃が行き届き綺麗になり、ちょっとした憩いの場、まさにレストルームになっている。ホーム前の線路を埋め尽くしていた吸い殻も姿を消した。市場経済は効率を求め社会の改造を図る。機能的なるものが文化的なるものを凌駕し、効率の良い生産方式が採用され、富は増大し、社会は清潔になる。

 機能的なるものが長い時間を掛けて文化的なるものへと変容することがある。畑は決して自然のままでは生じない。その原初においてそれは機能的なるものだった。しかし、都市生活が拡大した今、それは機能的なるものというよりも、文化的なるものへと変容している。機能的なるものと文化的なるものの境界は流動的で定まったものではない。とはいえ、今の新宿の姿は、まぎれもなく機能的なるものであり、文化としての働きは乏しい。このことは新宿に限らず、現代日本の都市すべてに通底する。文化的なるものは上からの命令では生まれることも、消えることもない。しかし、現代の都市は、企業戦略や政治的な思惑で簡単に作り、壊すことができる。だからすぐに再開発が進められることになる。しかし、この都市の機能的なるものは、人間の身体性とは必ずしも整合しない。すべてがきれいに整理されているオフィスは、効率性を極めることの代償として、はなはだ不自然な場になっている。確かにそこは静かで清潔で、短時間であれば心地よい。だが、深夜誰もいないオフィスにいるとその不自然さが分かる。静かで綺麗なのに、なぜか居心地がよくない。すべてが整いすぎて、生きる身体の感覚がそこには欠けているからだ。

 飽くことなく富の蓄積を目指す資本主義が続く限り、文化的なるものは不可視の背景へと後退し、機能的なものが前面に出てきて社会全体を支配するようになる。そして、それが行き過ぎると、人間自身が資本の機能の一部へと転落する。そして、おそらく、多くの者がそのことを無意識のうちに感じ取っている。若者でも昔のものに惹かれることが少なくない。それは雑然とした文化的なるものに親近感を覚えるからだろう。私たちが文化的なるものに親しみを感じるのは身体的存在として自然なことなのだ。機能的なるものが増大していく中、その行き過ぎを正すためにも文化的なるものの復権が必要になっている。だが、新宿を昔に戻すことができないように、それは容易なことではない。


(H30/10/22記)


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