なぜ人は働くのか。勿論、生活の糧を得るためだ。資産家でない限り、遊んで暮らすことはできない。しかし、資産家に限らず、働かなくても何とか生活できる者は必ずしも少なくない。大企業でそこそこに出世し定年を迎えた者は、公的年金だけではなく、かなりの額の企業年金があり、子どもが独り立ちし、家のローンが済んでいれば、働かなくても現役時代とほぼ同じ生活ができる。そういう恵まれた環境にあっても、再雇用や関連企業などで働いている者が圧倒的に多い。 ケインズは世界恐慌の嵐が吹き荒れていた1930年に、100年後の世界を展望し、資本の蓄積と技術進歩で人は働く必要がなくなると予言した。しかし、働く必要がなくなったとき、人は何をすればよいか分からず困るだろうとも予言した。なぜか。人は余りにも長期に亘り、一生懸命に働くように訓練されてきたので、働く必要がなくなったとき他に遣ることを見つけることができないからだ。 予言が当たるかどうかは定かではないが、ケインズは、現代に生きる者たちの心情を鋭く描き出している。現代人は、たとえ働かなくても生活ができたとしても、働いていないと不安で仕方がない。働く理由は生活の糧を得るためだけではなく、不安を隠蔽するためでもある。働くように訓練されてきた者にとって、退屈は最大の敵であり、やがてそれは不安に変わる。そして、定年を迎える前に、退職後、そういう生活が待っていることが予感され、多くの者が雇用延長や再雇用、転職の道を探す。仕事を辞めた者も、悠々自適ではなく、趣味やボランティア活動に、まるで仕事をしているかのように打ち込む。それは結局働いているに等しい。 信仰心の薄い現代人にとって、退屈は世界や人生が本質的に無意味であることを示唆する。自分が生きることに何か意味があるのか。働いていれば、あるいは何かに打ち込んでいれば、そういう哲学的な問いに悩まされることはない。しかし、退屈するとき、人は、ふと、人生の意味への問いに誘われる。そして、その問いに肯定的に答えることは難しい。人の生に特段意味はなく、ただ事実として生が在るだけだ、これが信仰心の薄い現代人の常識的な答えだからだ。しかし、これは身も蓋もない答えで、そんな答えは聞きたくない。だから退屈を回避する必要がある。しかし、そのためには働くか信仰するかしかない。だが、俄かにお祈りしたところで救われない。そうなると働く道しか残されていない。 ケインズは、いずれ人は働くことよりもずっと大切なことがあることに気付くと語っている。だが、本当にそうなのか疑問が残る。資本が蓄積し技術が進歩した現代、信仰を取り戻すことは容易ではない。だとすると、ここ数百年くらいは、働くことが人にとって不可欠である時代が続くと思われる。 了
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