☆ 過激さ ☆


 世の中、どうしても、過激な思想や行動が穏健なそれよりも受ける。穏健なリベラルや保守より、しばしば、左翼、右翼などと呼ばれる極端な思想や行動が人々の心を捉える。特に若者や社会に不満を持っている者には穏健な思想や行動よりも、過激なそれが支持を集める。黒人の公民権運動でも、穏健なキング牧師よりも過激なマルコムXを支持する者が少なくなかった。

 穏健な思想は長い目で見れば、社会に安定をもたらし、改革も促進するが、短期的に見れば、権力や因習への妥協、中途半端な改革と急進的な人々の目には映る。一方、過激な思想や行動は、権力や因習を一挙に解体し理想を実現することを主張する。それは腐敗した権力への真の批判、真に正しい運動と評価されることがある。

 過激な(と評されることがある)思想家は多数いるが、最も著名で人気が高いのが、マルクスとニーチェだろう。特に80年代のポストモダニズムの興隆以来、ニーチェは人気が高い。

 マルクスが左翼であるのに対して、ニーチェはどちらかと言えば右翼であると言える。少なくともニーチェを民主制や人権思想の支持者とみることはできない。ニーチェをナチズムやファシズムの先駆者として捉えることを厳しく批判する者でも、ニーチェを民主制の擁護者、男女平等論者と言う者はいない。ニーチェは民主制を支持しなかったし、民主制の基盤となる新聞をたいそう嫌った。「病人を助けるな」、「女のところに行くときには鞭をもっていけ」はおそらくニーチェの本心から出た言葉と思われる。ニーチェは、民主主義や人権思想に批判的な風変わりな貴族主義者とでも言うべき存在だった。

 それゆえ、民主、人権、平和を守るべき理念と認めている欧米や日本のような社会では、ニーチェは評価されない方が自然に思える。ところが、マルクス主義が後退した80年代以降、ニーチェは最も人気がある思想家という地位を占めている。それにはニーチェが持つ過激さが影響していると思われる。

 だが、過激さだけでは長続きしない。ニーチェが長期に亘って偉大な思想家として各方面で評価されてきたのは、過激さの中に真理への洞察があるからだ。たとえば、ニーチェは、男女平等など馬鹿げていると考える。この点で、ニーチェは男性優位主義者と言わなくてはならない。だが、通常、男性優位主義者が、その根拠を男が女より優れているということに求めるのに対して、ニーチェは男が女よりも優れていることを否定する。かつて男と女で闘争があり、男が勝ったから男が優位に立っている。勝利をわざわざ手放すことは馬鹿げている、これがニーチェの論法だ。男と女の間で闘争があったかどうかは疑わしいが、男が女よりも優れているという思想が社会的に構成されたものでしかなく、根拠がないことを認識しているところにニーチェの優れた点がある。その思想はジェンダー論に繋がり、だから、ニーチェが本質的に右翼で男性優位主義者なのに、フェミニストや左翼からも人気があり高く評価されている。

 つまり、過激さだけでは長続きはしない。長く支持されるには、優れた洞察力が欠かせない。その点はマルクスも同じで、共産主義運動全盛時代には及ばないが、マルクスは今でも人気があり高い評価を得ている。一方、欧米諸国や日本などで学生運動が盛り上がった60年代に、その思想の過激さで人気があったマルクーゼなどは、今ではほとんど話題にのぼることがない。そこにあったのは「一時的に人々に受ける過激さ」だけで、真実に至る洞察が欠けていたからだと思われる。

 ある過激な思想が評判になっているとき、それが単なる過激さ、一時的に受けている過激さに留まるものなのか、それともニーチェやマルクスのように、優れた洞察を併せもつ時代を超えていく過激さなのかを判別することは容易ではない。だが、社会が混乱しているときなどには過激な思想が大勢を制することもある。だから、過激さの質を的確に評価する必要がある。ニーチェやマルクスを読む現代的な意味とは、まさに、それを的確に評価できる目を養うことにあると言えるかもしれない。


(H30/4/8記)


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