☆ 小説のジャンル ☆


 芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学が対象になると言われる。また、ノーベル賞を取るには純文学である必要があるなどとも言われる。つまり純文学の方が格は上だというニュアンスがある。しかし、純文学、大衆文学というジャンルに何か意味があるのだろうか。

 西洋文学史上の最高傑作は何かと問われて、よく名があがるのが、ホメロスの「イーリアス」、「オデュセイアー」、セルバンテスの「ドン・キホーテ」、トルストイの「戦争と平和」などだが、果たしてこれらの作品は純文学だろうか。強いて言えば、ドン・キホーテの前半などは純文学より大衆文学と言う方が相応しい。イーリアス、オデュセイアーも同じだろう。純文学が大衆文学よりも格が上だという根拠はない。そもそも、そういう区分に意味があるかどうかに疑問がある。

 ボルヘスは、推理小説とその始祖エドガー・アラン・ポーを題材にした講演で、こう論じている。小説そのものにジャンルがある訳ではない。読者が作品をどう捉えるかという点において、小説はジャンル分けされる。読者がある作品を純文学として読むのであれば、それは純文学であるし、大衆文学として読むのであれば、それは大衆文学となる。

 ボルヘスが指摘するとおり、純文学であるか、大衆文学であるかは小説に内在する性質ではない。作品が誕生した瞬間からジャンルという属性がそこに存在する訳ではない。ただ読者や評論家との関係性においてのみ、それが特定のジャンルへと分類される。推理小説、サイエンスフィクション、児童文学、ファンタジーなどというジャンルについても同じことが言える。

 だが、読者も評論家も社会の中にある。彼と彼女たちが純文学、大衆文学というジャンル分けに違和感なく適応しているのは、現代社会という場が、そのような区分を受容するよう、読者や評論家に強いているからだと言える。権威ある評論家や多数派を占める読者の趣味だけで、純文学、大衆文学というジャンルができ、個々の小説を二つのジャンルに分類する訳ではない。背景になる社会の在りようがそれらを可能にし、ジャンルが現実のものとなる。

 だが問題はその社会的背景を解明することにある。そして、これが難しい。民主的で、基本的人権の平等な分配が保証されている現代社会において、純文学と大衆文学というジャンル分けは相応しくないように思われる。ところが、これらの区分が疑問に付されることはほとんどない。芥川賞と直木賞という二つの賞を持つ文壇や出版社の策略などという意見もあるが、策略だったとしても、策略が功を奏する社会的背景が問題となる。

 現代社会においては、至るところで、分類し差異化しようとする意志のようなものが働いていると感じる。差異から利益を取り出す資本の論理がそこに在るのかもしれない。だが、ここでは、それについては課題として残すしかない。


(H30/2/11記)


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