四半世紀前、オフィスの机には紙の資料が山と積まれていた。だが、今では、そういう光景を見ることはほとんどない。比較的最近まで、官公庁の事務所では紙の資料が大量に積まれていたが、各種申請・届出が電子化されたこともあり、紙の資料は急速に姿を消しつつある。会議室にはプロジェクタや大型ディスプレイが標準的に装備され、会議でも紙の資料が使われることは珍しくなった。今では、ディスプレイを見ながら議論し、その場でパソコンを使って書記が議事録を作成し、参加者がネットで確認するという遣り方が普通になっている。パソコンが普及し始めた当初、掛け声ばかりでペーパーレス化は遅々として進まかった。しかし、10年くらい前から、インターネットとイントラネット、モバイルの普及などもあり、一挙にペーパーレス化が進みオフィスから紙の資料が駆逐されている。その影響でプリンターとプリント用紙の使用量も大幅に減った。紙が完全に不要になることはないだろうが、たまにしか使わないという時代はすぐそばに来ている。 一方、ここに来て、キャッシュレス化も急速に進んでいる。商店街を歩いていると、現金ではなくクレジットカードを使う者が増えていることに気が付く。また、電子マネーや決済機能を具備したスマートフォンを使う者も多くなった。電子商取引やネットバンキングが普及し、店舗ではなくネットでの取引が急増している。筆者も電子商取引、クレジットカードやSUICAを利用する機会が増え、口座から引き出す現金は以前の半分になっている。周囲の者に尋ねても現金を使う機会が減ったと言う者がほとんどだ。 いずれ現金は不要になるのではないだろうか。現金とは本質的に数字が記された、それ自体は価値のないモノに過ぎず、内容のある情報を記載した紙の資料よりも価値は小さい。金本位制の時代はとうの昔に去り、今では通貨の価値は市場が決める。各国政府や中央銀行も市場に介入することで通貨の価値を操作する。これらのほとんどは今ではネットを通じて行われており、現金が介在する必要はない。銀行は預金者からの引きだしに備えて現金を準備しているが、キャッシュレス化の進展で預金者が現金を必要とする機会は減っているのだから、必要な現金の量は減る。銀行経営が危機に瀕したとき、以前ならば預金者は一斉に現金を引き出そうとしたが、ネットバンキングを使えば、他行に預金を移すことが簡単にできるから銀行まで出掛けて現金を引きだす必要はない。 もちろん、今でも現金しか受け取らない店舗はあるし、セキュリティ上の問題があるからクレジットカードは使わないと言う者もいる。ネットバンキングを使う者はまだまだ少ない。だから、すぐに現金を無くすという訳にはいかない。しかし、紙の資料のように、証拠書として、あるいは文化的遺産として無くすわけにはいかないという事情は現金にはない。少なくとも理論上は現金を無くすことができると思われる。また、紙幣や硬貨を廃止し、全てを口座で処理するようになれば、経済活動は今よりずっと効率化され安定すると期待される。それゆえ、当初は思うように進まなかったペーパーレス化が短期間に進んだように、キャッシュレス化も切っ掛けがあれば急速に進むように思われる。 ただ、筆者は、現金には、電子化された通貨とは違う、何か捨てがたい魅力を感じる。物理学的には、現金は数字を記した紙幣又は硬貨に過ぎない。経済学的には、1万円札と残高1万円の電子マネーの価値は等しい。だが、現金は電子化された通貨とは違う、何か人間存在を象徴するような魅力があるように思える。10万円を現金でもらうのと、口座に10万円振り込まれるのとでは、前者の方がずっとありがたみがある。もらった現金10万円をそのまま預金してしまうかもしれない。だが、それは現金に魅力を感じないのではなく、10万円の現金を無くさないためだ。10万円の現金が貴重だからこそ安全な場所に保管しておく。なぜそうなのかは上手く説明できない。現金でしか商品を購入できなかった時代に育った者のノスタルジーに過ぎず、今の若者はそうではないと言う者もいるだろう。だが、現金には口座の数字には還元できない、何かモノの魅力のようなものがある。たぶん、それはノスタルジーに過ぎないものではない。それゆえ、たとえ経済学的には合理的で実現可能だとしても、安易に現金を廃止するべきではないようにも思える。 了
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