☆ 本を読むということ ☆


 毎年、膨大な数の本が新たに出版される。一体誰がそんなにたくさんの本を読んでいるのだろう。

 人が一生に読むことができる本はごく限られている。たとえ毎日1冊、本を読んだとしても精々3万冊にしかならない。アニメなど一日に複数冊読める本もあるが、たいていは、読み終わるのに数日は掛かる。専門書になれば読破するのに数か月かかることもある。カントの「純粋理性批判」やヘーゲルの「精神現象学」などはその典型だろう。数学や物理学の高度な専門書など理解できるまでに年単位の月日が掛かることもある。だから、人が生涯に読むことができる本は、読書家でも、精々、数千が限界だろう。毎年、日本では新刊本が7万冊出版される。それと比べると、ほんの僅かの数でしかない。

 これだけ膨大な数の本があるというのに、評論という職業が成立するのは不思議に思える。ごく一部の本しか読んでいないのに、まるで、この世のあらゆる本を読んでいるかのごとく、評論家は本の評論をする。なぜ、そのようなことができるのだろう。

 評論家という人種は厚かましく、かつ、愚かな読者が書評を読みたがるからだ、というシニカルな答えがある。尤もな意見だが、それだけではない。優れた評論、優れた評論家は確かに存在する。たとえば、小林秀雄、蓮實重彦、柄谷行人などの名を挙げることができる。

 「本を読む」ということは、本を熟読することだけを意味するのではない。本の内容を理解することだけを意味するのでもない。「本を読む」ということは、その本が社会的諸関係の中で有する意義を理解することを意味する。書名と著書、目次、まえがきとあとがき、出版社と出版年月日、帯の文言をみるだけで、その本の意図や書かれてある内容は推測できる。だから実際に全て読まなくても評論はできる。評論家とか批評家とか呼ばれている者のほとんどはそういう遣り方をしていると推測される。さもないと評論などできるものではない。

 しかし、それでよい。先に述べたとおり、流通する本の数は、経済とか哲学とか特定の分野に絞っても数限りなくある。その全てを読破することは誰にもできない。そして、そもそもその必要がない。カントやヘーゲルを全て読まなくても、カントやヘーゲルの思想を理解する方法はたくさんある。逆に読破しても、まったくおかしな解釈をしていることもある。いや、おそらくその方が多い。哲学などは、なまじ深読みをすると却って訳が分からなくなる。だから、それぞれの本の持つ社会的意義を知ることができれば十分なのだ。そして、優れた評論家は、その能力に長けている。

 本を購入したまま読んでいないことに疚しさを感じる者は多い。しかし、恥じたり悔やんだりする必要はない。買うときに、書名と著書名、目次と帯の文言くらいには誰でも目を通す。さもないと買わない。それもしないで買うときには、どこかで書評や広告の文書を読んでいる。つまり買う時点で、すでに本の社会的意義を大よそ理解している。そして理解して購入している。だから、購入する時点で完全ではないが、購入者はその本を読んでいることになる。積読は置き場所に困るが、目の届く範囲に置いておけば、本の背表紙に記載されている書名、著者名を目にするだけで、持ち主は本を読み返していることになる。だから、書店に行き、気になる本があったら、臆することなく購入し、堂々と積読をしていってもらいたい。


(H29/2/12記)


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