☆ 法の支配 ☆


 至るところで「法の支配」が強調されるが、実践する者はほとんどいない。たとえばトランプ大統領は法の支配を完全に無視している。メキシコの反対にも拘わらず国境に壁を作り、その上、その建設資金を出せ、出さなければ関税を掛けて税収で作ると言う。こんな理不尽な要求があるだろうか。法の支配の故郷であるはずの米国の大統領がこれでは悲しくなる。

 トランプ大統領だけではない。一方的に定めた領海線を、軍事力をちらつかせて相手に押し付けようとする中国の指導部が法の支配から逸脱していることは言うまでもない。ウクライナやシリアで、自国の権益を軍事力の行使により確保しようとするロシアも変わらない。他にも多くの国が、法の支配を無視し、力で自国の権益を確保しようとしている。

 日本も他国のことを言えた義理ではない。政府首脳は中国に対して、法の支配を守れと要求する。だが同じようにトランプ大統領に対しても、法の支配を守れと堂々と要求できるだろうか。できなければ、中国に対してだけ法の支配を要求する日本政府はフェアではなく、法の支配に悖ると批判されても致し方ない。日本による尖閣の支配は先占の法理に則ったものであり理不尽なものではない。しかし日本が尖閣を領土に組み込んだ1895年は日清戦争の最中で現代とは全く異なる国際環境だったし、現在の国境線を定めた1951年のサンフランシスコ平和条約に中国は参加していない。しかもサンフランシスコ平和条約の主役とも言える米国は尖閣の領有権には中立の立場を取っている。このような状況を考えれば、尖閣の領有権に関しては、関係各国で見解の相違があり、話し合いで解決すべき課題と考えるのが妥当だろう。しかし、日本政府は「尖閣は固有の領土」と主張し続け、中国など関係国との対話を拒否している。外交戦略があることは理解するが、このような態度は法の支配に合致しない。世界の多くの国の批判にも拘わらず、科学的調査と称して捕鯨を続けることも法の支配に悖る。日本もまた法の支配を実践できていない。

 法と言っても、所詮は人が作ったものであり、しかも国際協調の下で民主的に定められたものとは限らない。国内法も国際法も、しばしば力を有する者が一方的に法を定めている。それゆえ、力でそれを覆そうとする試みも絶えることがない。だが、そこで、「所詮は力の問題」というニヒリズムの世界に浸っていたら、戦争もテロもなくならない。力ある者が無き者を支配するという構図も変わらない。悪しき法だと思っても、それを変えるときには力を行使するのではなく、平和的な方法で変更することが必要であること、権益を持つ者はその権益が公正なものであるかどうかを吟味し、変更を求める者と協議して公正な結論に至るように努めること、公正ではないと結論された場合は速やかに改善すること、これらの原則を世界が守るようにしないと平和な世界は実現できない。

 だが、このことこそが「法の支配」であり、できないものをできるようにしようと言っても無駄だという反論があろう。しかし希望はある。日本は法の支配を守ろうとしているのに中国や韓国が守ろうとしない、こう信じている日本人が多い。同じことが他の国にも当て嵌まるだろう。しかしそれは錯覚に過ぎない。程度の差はあれ、法の支配の原則に照らして批判を完全に免れる国などない。そのことを、各国の市民が認識すれば世界は変わる。お互いに少しだけ譲歩することで世界はかなり良くなる。そして、各国市民はそのことを実感する。そして対話が進み、法が支配する今より良い世界が実現する。夢物語だと言うものがいるだろう。だが1776年に発刊されたアダム・スミスの「国富論」を読めばそうではないことが分かる。アダム・スミスは植民地政策に批判的で、植民地を放棄し互いに自由貿易をした方がよいと主張した。その一方で、そのような時代がくることはないだろうと悲観的な見通しを語っている。だが、二百年近く掛かったとは言え、植民地はほとんど独立した。そして解決すべき多くの問題を抱えながらも世界の多くが自由貿易の恩恵に与っている。全ての外交問題を平和的に解決できる世界など実現不可能だと信じている自称リアリストは筆者のような考えを「お花畑論」だと嘲笑する。しかし、自称リアリストたちは間違っていたと歴史家が評価する時代が必ず来る。そしてそのためには近視眼的なリアリズムではなく理想の実現を求める者が必要なのだ。


(H29/1/29記)


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