☆ ボブ・ディランとノーベル賞 ☆


 ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。驚き、そして正直複雑な気分に襲われた。

 彼が時代を画する素晴らしい芸術家であることに異論はない。半世紀前、私が小学生の頃、国内ではビートルズ人気が最盛期で、ボブ・ディランの人気はすでに衰えていた。それでも国内の多くのフォーク歌手がボブ・ディランを手本として素晴らしい作品を多数生み出しており、ディランの影響力の巨大さは子ども心にも十分に理解できた。だから、彼の授賞は素晴らしい!と祝福し、喜びたい気持ちはある。自分の子ども時代を褒めてもらっているような気分にもなる。だが二つの理由でどうも素直に喜べない。

 授賞のニュースを聞いてすぐに、「ディランは授賞を喜んでいるだろうか?もしかしたら授賞を辞退するのではないか?」という思いが脳裏を過ぎった。ボブ・ディランの名は、私にとっては、反体制という響きがある。だから、やはり反体制だったサルトルがノーベル文学賞を辞退したようにディランも辞退するのではないかと一瞬考えたのだ。だが、あらゆる賞を拒否したサルトルと違い、ディランは幾つかの賞をすでに受賞している。だから、ここでノーベル賞を辞退する理由はない。一日経ってもまだ本人と連絡がつかないとのことだが、辞退することはないだろう。でも、もしディランが「賞を与えられて光栄だ」とか、「この喜びをファンと分かち合いたい」などとコメントしたら、正直がっかりする。子ども心に芽生えた彼の偶像がガタガタと音を立てて崩れ落ちてしまう。ディランとノーベル賞の組み合わせは、やはり違和感がある。

 もう一つ理由がある。ディランの授賞を予想した者は国内だけではなく、海外でもほとんどいなかったに違いない。彼は音楽家であり文学者ではない。こういう区別は意味ないかもしれないが、とにかく一般的にはそう考えられている。事実、これまで音楽家と称される人物で文学賞を受賞した者はいない。だからこそ今回の選考は画期的なのだと評価する者もいる。だが少し違う気がする。私が捻くれているだけなのだろうが、ノーベル賞選考委員会の高圧的な視線が感じられてならない。「どうだ!驚いただろう。我々は君たち俗人とは見る目が違うのだ。」という尊大な態度が透けて見えないだろうか。ノーベル賞は巨大な権威であり、世界に甚大なる影響を与え、時には政府まで動かす。それなのに選考過程は極秘であり、誰が候補になっているのかすら分からない。財務諸表を一切公開せず、巨大な力で国家と市場を支配する謎の超大企業のような存在と言ってもよい。果たしてそれでよいのだろうか。

 勝手な想像だが、ボブ・ディラン自身がどのようなアクションを取ればよいのか迷っているのではないだろうか。それなら、彼の生き方を貫いて、思うがままに遣ってもらえばよいと思う。無視するもよし、辞退するもよし、大喜びするもよし。尤も私が言うまでもなく彼なら思うがままに行動するだろう。だが、いずれにしろ、つくづくノーベル賞という存在は厄介な代物だと感じる。私たち一般市民の方こそがノーベル賞を無視するべきなのかもしれない。


(H28/10/15記)


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