☆ 人はロボットに慣れるか ☆


 パソコンもスマホも最初は違和感が大きかった。「仕事で必要なときには仕方ないが、普段は、こんなものは使う気にはならない。」最初はそう感じたし、周囲もほとんど同じ意見だった。ところが今ではパソコンもスマホも手放せない存在になっている。手放せないどころか、メガネと同じように身体の一部となっている。

 人にとって機械は、初め、異形のものとして現われる。しかし、日常的に使われるようになるとやがて身体の延長として当たり前の存在へと変貌する。だがロボットなどはまだまだ異形の存在で、近頃店頭でよく見かけるペッパー君などもやはりどこか気味が悪い。先日、吉祥寺の駅前の商店街を歩いていると、携帯電話の販売代理店でペッパー君が接客している場面に出くわした。お客は家族連れで、3つか4つくらいの女の子が親に手を引かれたままペッパー君を凝視している。このくらいの年齢の女児だと、動物のぬいぐるみとかであれば大喜びで触ってみるものだが、ペッパー君は勝手が違うらしく警戒の色が隠せない。無邪気で何にでも興味を示す幼児でもロボットには違和感があるようだ。大人はペッパー君のことをたいていは知っており、さほど警戒感はない。だが、それも知識と経験があるからで、初めて出会ったときには、特にそういうロボットの存在を知らない者にはかなりの違和感があるに違いない。

 では、パソコンやスマホと同じように、いずれロボットが普及し日常生活で普通に使われる時代になったら、ロボットは私たちの身体の一部になるのだろうか。

 人工知能を具備し自ら動くロボットは他の機械とは違う。ロボットには他の機械にはない能動性、活動性がある。自動車や電車は人が運転して初めて動くし知能もない。勿論感情もない。自動運転自動車は運転手なしの知的な自動車だが、それがどこに向かうかは乗客が決める。だから自動運転自動車は運転手のいない遠隔操作のタクシーに過ぎず能動的という感じはない。パソコンも同じで人工知能技術が活用されているとしても、あくまでも人が使う道具、受動的な存在に留まる。チェス、将棋、囲碁などでは、コンピュータが人を凌ぐ存在になっている。それでも将棋や囲碁のコンピュータがどれだけ強くとも、動かないため受動的な道具という域を出ない。コンピュータ自身が勝負しているのではなく、プログラマが人工知能技術の助けを借りてプロ棋士と対局しているとみる方が理に適っている。

 しかし高度に発達したロボットはかなり毛色が違う。自ら学習しインターネットでアクセスできる大量の情報を活用するロボットは、もはや受動的な存在とは言えない。それは人に近い存在で、やがて多くの分野でその能力は人を凌ぐことになる。医師や弁護士など専門職、学者や芸術家などの仕事もロボットが代行する時代が来るかもしれない。その時、進化したロボットを私たちが身体の一部として受容できるかどうか、簡単に言えば慣れることができるかどうかが問題となる。

 無邪気な幼児ですら警戒するロボットはそう簡単には受容できないと予想される。だが、単身者が急増している現代、ロボットの方が気兼ねなく付き合えるとすぐに慣れる者もいるに違いない。そういう者はこれからも増え続ける。生物としての人はロボットに拒絶感を持つとしても、現代社会というシステムに生きる者にはそれを身体性の延長として受け容れる構えが出来ている。ただ、それが喜ぶべきことか、悲しむべきことかは何とも言えない。


(H28/8/27記)


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