☆ 新年、哲学事始め ☆


 年が明けたが、この歳になると新しいことはほとんどない。人は歳を取ると哲学的になると言われるが、確かにわが身を顧みるときそれを実感する。やたらと哲学的な考えが心を占めるようになる。その理由は実証的な学問や論理的な思考についていけなくなった所為だと言われる。偉大な科学者も晩年は宗教や哲学を語ることが多くなる。しかし、それだけではない。実証科学には常に曖昧さが付き纏うこと、数学のような論理だけでは世界を理解することはできないことが、長年の経験から頭ではなく肌で感じるようになる。衰えたのではなく寧ろ賢くなったのだ(とは言い切れないが)。

 ハイデガーは「哲学は科学のように進歩しない。哲学はあるか、無いかだ」と言っている。哲学に一つの答えを求めることはできない。ハイデガーの問いは「存在とは何か」だが、彼は唯一無二の答えを探している訳ではない。20世紀前半、西洋は危機に陥っていた。シュペングラーの「西洋の没落」などという著作も現れたし、ハイデガーの師であるフッサールも西洋の諸学問の危機を訴えた。そういう時代背景の下で、ハイデガーは古代ギリシャ以来の「存在に対する理解のあり方」を問い直し、新しい存在了解を確立しようとした。それは古代ギリシャの存在了解が間違っており正しい答えを探すという試みではない。危機に瀕する西洋とその思想の再生を目指し新しい存在了解を打ち立てようとする試みだった。

 だが、ハイデガーは晩年新しい存在了解を打ち立てる試みを放棄する。放棄せざるをえなくなったと言うべきだろう。20世紀を代表する哲学者と目されるハイデガーでもこの課題は重すぎた。人間の力で新しい「存在」又は「存在了解」を打ち立てることはできない。人間は「存在」の前に翻弄されるだけなのだ。たとえ主観的には自らの力で存在を支配している気になっているとしても、それは錯覚に過ぎない。

 第2次大戦後の世界的な経済発展と科学技術の進歩で、このような悲観的な気分は霧消した。非西洋圏の興隆で西洋は相対化されたが、それでも西洋思想の流れを汲む科学技術や政治経済体制が世界を席巻している。インターネットの普及は英語の重要性を拡大した。

 とは言え、深刻な環境問題に直面して世界は大きく変わろうとしている。今までどおりにグローバル経済化の流れに身を任せることではいずれ立ち行かなくなる。科学技術の力で何とかなるだろう、民主化が進めば問題解決だ、などという楽観論は成り立たない。増大する二酸化炭素は科学技術だけでは減らすことはできない。なぜならどのような技術を使おうと経済の量的拡大に躍起になっている限り二酸化炭素は増大する一方だからだ。哲学の問いは、好むと好まざるとに関わらず、再び問われなくてはならない。新年に当りそのことを再確認しておきたい。


(H28/1/2記)


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