日本にとって平成27年(西暦2015年)はどんな年だっただろう。「皮相的」という言葉が似合う年だったと思う。 安保法制が成立した。だが成立の過程で、国会に招聘された憲法学者3人が、自民党推薦の学者を含めて安保法制を違憲だと断定した。憲法学者の違憲発言で勢いを得た反対派は国会を取り囲み反対運動を繰り広げたが結局多勢に無勢で法案は成立した。しかし自民党が安保法制違憲論者を国会に招聘するという間抜けさを別にしても、論争は皮相的で不毛だったと言わざるを得ない。市民主体の反対運動の盛り上がりを評価する向きもあるが、後に続くものがない。安保法制で一時的に支持率が下がった安倍政権だが、すぐに持ち直し政権の長期化がほぼ確実となっている。政権の根底を揺るがすような根源的な批判がないからこうなる。 違憲かどうかは極めて重要だ。しかし憲法学者の発言の真意やその論拠を深く探究することなく、そして一人一人の市民自らが違憲という判断が妥当なものか問うことなく、「違憲だ」、「いや合憲だ」、「法的安定性など問題ではない(暗に「違憲でもやむなし」又は「憲法など、どうでも良いように解釈できる」を意味する)」などという紋切り型の発言ばかりが国会、言論界、報道界に溢れ、まともな議論がなされていない。思想の左右・中道を問わず皮相的な議論に終始している。 「爆買い」という言葉が流行語大賞に選ばれた。確かに「爆買い」という言葉は大流行し、今や一般用語になったと言っても過言ではない。実際、中国人観光客の「爆買い」は日本経済を潤した。それもあってか、近頃では、端から中国人目当てで日本人を相手にしない店も少なくない。別にそれは悪いことではない。たくさん買い物をしてくれるお客さんを大事にするのは商売の常識だからだ。しかし、これだけ中国人が日本社会に溢れているというのに、日本人と中国人が互いを理解するようになったとは到底言い難い。爆買いする中国人も、尖閣の問題になれば、依然として「日本が不法占拠している」と考えているに違いない。中国人相手に商売する日本人は尖閣を中国領だとする中国人の主張を理解した訳ではなく、ただその問題を持ち出して客が逃げると困るから黙ってニコニコしているに過ぎない。結局、金と商品の流れは巨大だが、人と人の交流にはなっていない。実に、笑いたくなるほど現実的で、それはそれで結構なのだが、皮相的であることは否定しようもない。 携帯電話のキャッシュバックがやり玉に挙げられている。確かに2年ごとに加入する電気通信事業者を変える者が、その都度、多額のキャッシュバックを得て、その一方で長く同じ事業者のサービスを使い続けている者に見返りがないのはおかしい。しかも長く使い続けている者の支払う料金がキャッシュバックの財源になっているのだから、不公平と言われても致し方ない。だが、いまや日本社会では競争相手から移行してきたお客を優遇しキャッシュバックなどの見返りを与えることは普通のことで、殊更、携帯電話だけを問題にすることには疑問がある。また、2年ごとに事業者を変える者は、それなりに努力をしている。どのタイミングで、どの機種に、どの代理店あるいは販売店で手続きをすると一番得になるか、苦労して調べ必要な手続きをしている。だからキャッシュバックはその労力への報酬だと見ることもできなくはない。同じ事業者を使い続けている者(筆者もその一人だが)には、そんな面倒なことは必要ない。しかも事業者を変えればキャッシュバックなど特典があることは承知の上で、同じ事業者を使い続けている。キャッシュバックは魅力だが、面倒な手続きをしてまで欲しいとは思わない。ならば、それはそれでよいではないか。いずれにしろ「キャッシュバックは不公平だから止めろ」と言うだけでは、皮相的と言わざるを得ない。 「難しいことは分からない」、「厄介なことには関わりたくない」、これが多くの者の本音だろう。それが悪いとは言えない。一々、深く探究したり、議論をしていたりしたら先に進むことができなくなる。しかし、憲法は決して難しくない。ただ、その条文から感じ取るものと通説が異なることが少なくないため憲法や憲法学が難解なものに思えてくるのであるが、勉強すれば通説やそれに対する異論を理解することができる。そのために必要となる時間はさほど多くない。尖閣の問題は流石に厄介で棚上げしておくことが無難だが、英語で、あるいは中国語の分かる日本人や日本語のわかる中国人を介して、お互いの文化や地理について語り合うことはできる。それを通じて物の交流だけではなく人の交流も可能となる。経済も難しくはない。現代経済学は高度な数学を使うことが多く、そこで怖気づく者が多いのだが、物理学に比べれば使われる数学はずっと易しい。しかも現代物理学では数学を理解しないと本質が理解できないことが多いが、経済学の場合は数学を極力使わずに物事の本質を説明し、聞き手は理解することができる。いずれにしろ、もう少し踏み込むことは比較的容易にできる。 忙しない現代、多様な人と物が共存する現代、何事につけても皮相的になることは避け難いことかもしれない。だが今年の多くの出来事は、余りにも、現代人が皮相的になっていることを示しているように思える。自らが日頃取っている物の見方や考え方を見直し、少しばかり行動の仕方を変えるだけで、もっと物事の本質に迫ることができる。来年、平成28年はそれを目標としたい。 了
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