☆ 時間の謎 ☆


 街でたくさんの人とすれ違う。知った顔を見るとすぐに気付く。だがいつもそうだとは限らず、少し間をおいてから気が付き振り返ることがある。人は現在にのみ生きるのではなく、過去を含む現在に生きている。

 エスカレーターが急停止する。やむなくエスカレーターの上を歩く。だが酷く歩きづらい。階段と違い一歩ごとの段差が違うことが原因の一つだ。だが原因はそれだけではない。エスカレーターは普段動いており、その上を歩く必要はない。おそらく私たちは無意識のうちに動いているエスカレーターという未来像を描き出し身体はそれに備えている。ところがエスカレーターが停止したために、現実と身体に描かれていた未来像との間にギャップが生じる。そのため歩くことに困難を感じる。このように、人は過去だけではなく未来を含む時間の中で生きている。

 古典物理学では、時刻t=0での物理的状態が分かれば未来は精確に予測できる。量子論と統計力学により予測は統計的なものに留まることが判明したが、それでも確率的には未来は決っており物理学はそれを予測することができる。物理学の世界では「現在(t=0)」で全てが決まるから、存在するのは「現在」だけと言うことができる。

 しかし人は現在を中心としながらも未来と過去を含む拡がった時間の中で生きている。だから物理学は広範な自然現象を説明し予測できる強力なモデルではあるが、人間の生を説明できるものではない。

 なぜ人は過去・現在・未来に生きているのだろう。こう問うと「記憶があるから」と答えたくなる。しかし、記憶があるから過去・現在・未来に生きる訳ではなく、過去・現在・未来を包含する(物理学的なそれとは異なる)時間という場に生きているからこそ記憶があるとも言える(注)。おそらく、この問いには答えはない。ただそれを事実として認めるしかない。だが、私たちは、何故か、このような説明では納得しない。だから、たとえば脳神経系のメカニズムを解明することで答えを得ようとする。あるいは人間と同じ知能や感情を持ち行動するロボットを製造して答えを得ようとする。だがいずれも失敗に終わる。それは脳神経系のメカニズムは解明できないとか、人間と同じ知能と感情を持つロボットを作ることはできない、などという意味ではない。それらはいずれも困難な課題ではあるが、実現可能と言ってよい。ここで言いたいことは、たとえそれらが実現されても、私たちが過去・現在・未来に生きるという謎は解決できないということだ。
(注)過去の記憶が、現在ではなく過去のデータであることをなぜ私たちは知ることができるのだろうか。それは、過去・現在・未来を包含する拡がりを持つ時間に私たちが生きているからだ。もしそうでなければ、記憶は単に現在の知覚や思考と同列のもの、単に過去と呼ばれるタイムスタンプが押されているデータに過ぎない。パソコンに保存されている過去に作成したファイルのタイムスタンプを思い出してもらいたい。それは過去に作られたものであることを意味する。しかし、そのことを知ることができるのは、私たちが、過去・現在・未来を包含する拡がりを持つ時間に生きている場合に限る。そうでないならば、過去ファイルも「現在」に(同時的に)存在する(意味不明なタイムスタンプを持つ)ファイルの一つでしかない。

 どこまで行っても、この謎に答えは見つからない。それでも、私たちは生きている時間の謎を解こうとする。このエッセイを読んだ人でも、納得して探究を止めることはない。私などとは比較にならない優れた思想家や学者が同じことをもっと整然と説得力ある言葉で説明したとしても、やはり人々は納得しないに違いない。しかし、そこに文学や哲学の存在意義と可能性があると思われる。産業と科学技術の進歩で文学も哲学もその存在意義が薄れているとよく言われる。確かにそのとおりだと感じるが、それでも、この解決不可能な謎がある限り、そして、人々がその謎を解こうとする限り、文学も哲学も、いずれも消え去ることはない。なぜなら、科学で解けない謎は必ず、人々はここに解決の場を求めるからだ。


(H27/9/6記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.