☆ 読書と評論 ☆


 読書は難しい。どうしても評判や作者への思いが読みに影響して適切な評価ができない。芥川賞受賞の又吉氏の「火花」などその典型で、世評の高さから優れた作品に違いないという予感と、有名人の受賞に対する妬みが交錯して、適当な距離が取れない。ざっと目を通して、さすが受賞をするだけのことはあるという感想と、100万部以上売れるほどの作品ではないという複雑な感情が同時に湧いてくる。今は適切な評価ができないので、ブームが去ってから、じっくりと読むことにする。

 小説だけではなく、他のジャンルの著作でも同じことが言える。特に哲学思想の領域では、世評や作者への思いが決定的な役割を果たす。マルクスに傾倒していた学生時代、マルクスの著作、特に「資本論」は最終的な真理を告げる天啓の書にも等しい偉大な著作と信じて疑わなかった。だが知識と経験が増えていくとともに考えは変わった。歴史に残る優れた著作であることは変わらぬ事実でも、そこには多くの誤りや時代遅れな考え、表現が含まれていると感じるようになった。今では、アダム・スミスやリカード、カントやヘーゲルなどの著作と同様、優れた著作ではあるが、時代の制約を超えるものではないと考えるようになっている。これは筆者が歳と共に少しは賢くなった証だと考えている。だが本当はそうではないのかもしれない。若き時代の純真さを失い、生半可な知識と俗物的な思想に毒され、マルクスの真理を素直に読み取ることが出来なくなっただけ、と考えることもできる。いずれにしろ、哲学思想関係の著作は適切な読解と評価が難しい。

 「適切な評価など存在しない、自分の読みが全てであり正しさなどを気にすることはない」という意見もあろう。しかし、唯一無二の正しい読み方や評価は存在しないとしても、明らかに不適切な読み方、先入観による歪んだ評価というものはある。読者として、それを回避する方法が知りたい。自然科学や工学系の著作では難しくて理解できないことは頻繁にあるが、そこそこ理解できたと思う時には、大よそ適切な読解ができているし、評価も妥当なものとなる。そのことは応用問題を解くことで確かめることができる。概ね正しい答えが得られれば適切に理解したと言えるし、できなければ読み直すか、自分の頭では理解できないと諦める。文学や哲学思想書など人文系の著作でも同じことはできないだろうか。

 手間は掛かるが、できないことはない。まず著作の要約を書く。要約を基に時事問題あるいは過去の歴史、あるいは別の作者の著作や思想を評論する。文学であれば評論の代わりに短編を書く。そして、その評論や短編を他人に読んでもらい意見をもらう。こういう作業を通じて、読解と評価の妥当性を大よそ判断することができる。不適切であることが分かったら、もう一度、見方を変えて読み直し同じ作業をする。

 時間がない、人に読んでもらえるような短編が書けるのであれば作家になっている、という人が多いだろう。筆者もその一人で、一般読者ではこのような作業を貫徹することは難しい。だが、言論人や学者ならば時間があるはずで、こういう作業をきちんとしないといけない。ところが、こういう地道な作業を怠り、独善的に批評し価値を貶めたり過大評価したりすることが余りにも多い。評論家には、このことを心に留めておいてもらいたい。


(H27/8/9記)


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