「おたかさん」の愛称で親しまれた元社会党委員長で衆議院議長も務めた土井たか子さんが9月20日お亡くなりになった。享年85歳。心からご冥福をお祈りする。 86年に女性初の社会党委員長に就任した土井さんは、89年の参院選には、多数の女性候補を擁立、自民党を超える議席を獲得した。折しも、贈収賄で逮捕者を出したリクルート事件、消費税導入などで自民党に逆風が吹いていたとは言え、快挙だった。自らそれを「山が動いた」と評した。 しかし社会党の勢いは続かなかった。93年の細川政権誕生の際には、新政権に合流し、自ら衆議院議長に就任したものの、小沢一郎の強い影響下にあった新政権で主導権を握ることができず、翌年には、リベラル派の河野洋平が率いる自民党と手を携え自社さきがけ政権へと鞍替えする。政権発足とともに、社会党の村山富市が首相に就任するが、経験不足は否めず、2年もたずに橋本龍太郎に首相の座を譲る羽目に陥る。それ以後、社会党は民主党に合流する者、残る者、新しい会派を作る者などに分裂し、党名を社民党に変更するも歯止めが掛からず、退潮の一途を辿ることになる。 今思えば、土井さんが89年の参議院選で勝利を収めた時が最後の機会だった。社会党は戦後長く、思想的・政策的にはマルクス主義あるいはそれに近い政治思想に立脚し、活動資金は労働組合に依存するという体制を敷いてきた。だが60年代に全国に広がった革新自治体が70年代末から80年代前半に掛けて幕を下ろしたことが象徴するように、このような社会党の体制は明らかに時代の要請に応えることができなくなっていた。追い打ちをかけたのが、80年代末から90年代初頭に掛けてのソ連・東欧共産圏の崩壊で、マルクス主義の影響が強かった社会党には逆風となった。89年の参院選勝利の勢いがすぐに萎んだのも、この影響が大きい。 逆に言えば、土井委員長の時代に、国内外の状況変化を敏感に察知し、それに適応し、社会主義的な階級政党から、企業経営者や保守が強い地方の人々をも受容する国民政党へと脱皮していれば、その後の日本の政治は大きく変わっていただろう。 時代の流れに抗うことが必要なときは勿論ある。しかしながら、時代の流れに抵抗するにも、状況をよく見極めたうえで行動しないと、ただの時代錯誤になってしまう。護憲、人権、福祉、環境、戦争への深い反省など、旧社会党が唱えた理念には今日でも世界に通用する素晴らしいものがたくさんある。しかし、それらを具現化するには、時代に即した体制と運動を作り出していく必要があった。だが社会党はそれに失敗した。 土井さんは法の専門家で労働組合との関係は薄い。信念を持った護憲派ではあったが、教条的なマルクス主義者ではなかった。自分の考えに固執する人物でもなかった。北朝鮮による拉致問題を看過したとして非難されることがあるが、一部の者のように(拉致を認める以前の)北朝鮮の主張を鵜呑みにして日米韓当局の捏造だなどと主張するほど愚かではなかった。土井さんは、広い層から支持を受け、社会党を変えるには打って付けの人物だった。本人にもその意志は十分にあったと思う。だが実現するには至らなかった。なぜ、できなかったのかは分からない。だが、少数派に過ぎない共産党と社民党を除いて、オール保守の今の国会をみるとき、土井さんの時代に社会党が変わっていたならば、もっと違う道−それが今より好ましいか否かは別にしても−があったと思うと残念でならない。土井さんには、これからも、天国から、保守派に押されて元気のないリベラルや改革派を叱咤激励して欲しいと思う。 了
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