史上最大の発明は何だろう。文字や数字、信仰など抽象的なものは除いて考える。火、農具・農業施設、測量技術と建築術、印刷、船舶、蒸気機関、発電機、無線・有線通信、自動車、飛行機、列車、コンピュータ、テレビ、人工衛星、ロボット、色々なものが挙げられよう。それぞれ人類史に巨大な影響を与え、優劣はつけがたい。しかし最大の発明とまでは言わないが、地味で普段は取り上げられることは少ないが無視してはならない大発明が「鏡」だ。 この歳になると「鏡」を見るのは忌まわしい。老いがはっきり分かる。美貌で人々を魅了した女優、男優などは、さぞ嫌だろう。鏡に直接映しだされるのは、外から見える姿形で、心ではない。ところが、心もまたそこに映しだされる。怒り、恨み、嫉妬、恐怖など心の動きが鏡を通じて認識される。心が動揺したとき、手鏡で自分の顔を眺めて心を落ち着かせると言う者もいる。逆に、鏡で自分の顔色や表情をみて益々不安になることもある。鏡は第一義的には姿形を映すが、本質的には、自らの心を映すと言ってよい。自分以外の者を鏡に映す時にも、そこには自分の心の在りようが間接的に反映される。 人間の意識は自己意識として特徴づけられる。私は「私の意識」を意識する。そして、それが「私の意識」であることを知る。これが自己意識だ。それは「今も、昔も、私は私であり、私以外のものではない。」という自己同一性に繋がる。自己意識は自己同一性と表裏一体となっている。哲学とは思考を思考することだと言うことがあるが、この循環的構造も、自己意識の現れだとみてよい。神や仏と呼ばれる超越者への回路は、自己意識を超えようとするところにある。 自己意識は人間固有のものなのだろうか。それとも他の動物にも共有されるものなのだろうか。他の動物になることができないから答えは分からない。脳の比較などしても答えは出てこない。科学は、自己意識が生じる生理学的、物理学的な仕組みは解明できても、なぜそこに自己意識が無くてはならないのか、この根本問題に答えることはできない。このことは、意識など存在しないロボットに、人間そっくりのあたかも意識を持つ存在であるかのように行動させること(シミュレーション)ができることから容易に推察できる。自己意識は、科学ではなく、善悪の問題に近い。事実、善悪を問うところで、自己意識はその本領を発揮し、自己意識があるからこそ善悪が問題となる。「私は悪なのか」という具合に。 自己意識はいつ生まれたのか。これも原始時代に遡ることができないから、答えようがない。人の一生を考えても答えはでない。誕生してからどの段階で自己意識を確立したか、今となっては確認しようがない。眠りに就く瞬間が分からないように、自己意識が確立したときも分からない。 しかし「鏡」の発明が自己意識の確立に決定的な役割を果たしたことは間違いない。人間は鏡に自分の姿を映し、そこに在るのが他人ではなく自分であり、同時に、自分そのものではなくその写しであることを知る。鏡により、人間は自己を対象化し、その対象化した自己を認識することで、人間の心特有の構造、自己意識という観念に到達する。そして、人間は鏡を通じて、自己意識と共に、美と醜を見い出す。自己意識を確立した人間は、美を表現する芸術、善を求める信仰、真を究める学を生み出す。それらは様々な道具や技術と相俟って、人間を文明へと導く。 鏡をみた動物の振る舞いを観察することは興味深い。猿のような人間に近い動物だと、鏡を通じて自己への認識があるようにみえる。だが、人間のように、そこに明確な自己、自己同一性、そして自己意識を見い出すことはない。鏡への興味は限定的なもので、鏡に固執することはない。 鏡は、自己意識の発見を促し、自然から隔絶した文明を作り出すという人間固有の存在性格を確立した。その意味で、鏡の発明は、人類史において比類なき重要な出来事だった。しかしながら、自己意識は、同時に、他者の排除と過剰な欲望を生み出し、人間固有の執念深い終わることのない不和と陰湿な残虐行為、過剰な消費と破壊を生み出したとも言える。鏡の発明は、人類の不幸の始まりでもあった。 了
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