☆ 人間は数学に非ず ☆


 忘年会のゲームが始まる。箱が三つ置いてある。一つには賞品が入っており、残り二つは空箱。私は一つを選ぶ。幹事が残り二つのうち一つを開けてそれが空であること知らせ、選択を変えるかどうかを私に尋ねる(幹事はどの箱に賞品が入っているか知っている)。私は選択を変えるべきか。

 答えは「選択を変えるべき」となる。なぜなら最初に選んだ箱に賞品が入っている確率は3分の1、残りの箱に入っている確率は3分の2、変更した方が当たる確率が高くなるからだ。これを証明することは簡単。最初に私が一つの箱を選んだ時、当たる確率(=私が選んだ箱に賞品が入っている確率)は3分の1、外れる確率(=残り2箱のどちらかに賞品が入っている確率)は3分の2。この確率は幹事が(私が選んだ以外の)箱を開けても変わらない。私が最初に選んだ箱に賞品が入っている確率は相変わらず3分の1。残り二つの箱に入っている確率も変わらず3分の2、だが一つがすでに外れであることが分かっているから、残りの箱に入っている確率が3分の2になる。

 ところが、どうも騙されている気がする。どちらを選んでも同じような感じがするからだ。私もこの問題を出されて「どちらを選んでも同じ」と誤答した。他の者に同じ質問をしても間違える者が多い。頭が悪いのは私だけではない。中には、どう説明しても絶対納得しない者、納得したようなことを言っているが顔を見ると理由が分かっていない者が少なくない。

 人間は数学の様には割り切れない。目の前に二つの箱があり、どちらかに賞品が入っているという状況では確率が同じとどうしても思いたくなる。二つのうち一つの箱が開けられて空だったことが視界から消えてしまうのだろう。

 どうしても納得いかない者が、友人を誘って実際に実験をしてみた。その結果、数学が教える通り、選択を変えた方が当たることが多いことを確かめ漸く納得する。人間は常に経験から学ぶ。数学と経験は必ずしも合致しない。いや寧ろしばしば衝突する。衝突したとき人が頼るのは数学ではなく経験だ。そして大抵は経験の方が数学よりも頼りになる。

 別の者が同じ実験をした。この者は選択を変えた方が確率的に有利であることを知らない。すると、この者は、大体3分の2の割合で選択を変えた。そして9割近い割合で賞品を獲得した。どうしてだろう。箱を開ける相手の動作から自分が最初に選択した箱に入っているか、残りの箱に入っているかを読み取ったと言う。相手はどの箱に賞品が入っているか知っている。最初に選んだ箱に賞品が入っているときには、残りはどちらも空箱だから躊躇することなく箱を開ける。だが残り2つの箱のいずれにか入っているときには、入っていない方を開けないといけないので一瞬どちらの箱に入っていたかを頭の中で確認する必要がある。だから、箱を開ける前にほんのわずかだが躊躇する間がある。じっと相手を観察することで、この間の有無を感知し、どちらに賞品が入っているかが分かったと言う。ここでは相手の行動を観察することで、数学が教える獲得確率3分の2を超えて賞品を獲得することに成功している。このような鋭い観察力を養うものは、やはり数学ではなく経験だ。

 ただし、数学が有益であることも上の例から分かる。この人物は3分の2の確率で選択を変えている。この数値は数学の教える残りの箱に賞品が入っている確率と同じであり、だからこそ極めて高い確率で賞品を獲得することになった。こうして考えていくと、数学は、第三者的な視点から、他人又は自分の行動を理解するうえで非常に有益であるが、自分自身が現場の当事者であり速やかに判断を下さなくてはならないときには経験が物を言うことを示している。

 いずれにしろ、数学が有益であることは言うまでもないが、日々の暮らしでは、人は数学ではなく経験を頼りに意識的又は無意識的に行動する。そして、その方が、賞品を確実に手に入れた者のように上手くいくことが多い。尤も、私のように勘が悪い者は数学を大いに勉強してそれを暮らしに活かした方がよさそうだ。そう言えば、数学者の伝記などを読むと、どうも数学者という人種は数学に関することを除くと総じて勘が悪そうな者が多い。数学者が数学者足りえたのは、生活上の必要からだったかもしれない。だがそうだとしても、それこそまさに数学者が意識的又は無意識的に経験から学んだ術なのだと思われる。


(H25/12/23記)


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