☆ 憲法を読む ☆


 特定秘密保護法が成立したこともあり、日本国憲法を久しぶりに読んでみた。すると、色々と気になることがあった。

 「知る権利」この言葉は憲法のどこにも記述がない。ネットや本を調べると、第21条「集会、結社、表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密」の「表現の自由」から派生する権利と説明されている。また、同条の「検閲の禁止」からも帰結するという考えもあるそうだ。しかし、「表現の自由」と「知る権利」は少し違うという気がする。「表現の自由」が「言論の自由」や「報道の自由」を含意することはすぐに分かる。だが「知る権利」は直接的には「表現の自由」からは帰結しない。確かに「知る権利」がなければ表現の自由が意味をなさないということは分かる。だがそのことを以て、「表現の自由」の概念が「知る権利」を帰結するというのは論理の飛躍ではないだろうか。

 「知る権利」とは何に対する権利だろう。誰にも(国にも)、相手の合意なしには一般市民のことを知る権利はない。道で歩いている者に、「国籍」、「年齢」、「家族構成」、「病歴」、「犯罪歴」など尋ねても答えてもらえない。そもそも相手に答える義務はないし、こちらに尋ねる権利もない。「知る権利」とはあくまでも、国民主権の観点から国の諸活動とそれが所有する情報を知る権利だと解釈される。

 それゆえ、「知る権利」とは憲法の前文に規定される国民主権から帰結すると考えるのが一番しっくりくる。実際、そういう風に説明してある本やネットの記述もある。だが前文は憲法の精神規定で、具体的に国の活動や法律を拘束するものではない。だとすると、国民主権から「知る権利」が帰結するという主張は少し弱い気がする。

 「知る権利」を「国家の情報公開義務」、「情報公開請求権と国家の回答義務」というような形で憲法に明記してはどうだろう。そうすれば、特定秘密保護法のような法律に対する明確な歯止めになると期待できる。

 「内閣総理大臣には衆議院を解散する権限がある」そして「内閣総理大臣にのみ、その権限がある」と当然のことのように語られる。ところが、そのことは憲法のどこにも書かれていない。「国会法」も読んだが書いていない。ネットで調べると、根拠は第7条「天皇の国事行為」にあると説明されている。第7条3号に「衆議院を解散すること」という記載がある。天皇は内閣の助言と承認により衆議院を解散する。それゆえ内閣の決定で衆議院が解散できることになる。しかしここに書かれているのは内閣であり、内閣総理大臣ではない。内閣の意志決定は総理大臣と国民大臣からなる閣議でなされる。内閣の意志は総理だけ決まるのではない。しかし、憲法第68条により、総理大臣は国務大臣を任命、罷免する権利を有する。つまり総理が解散を決意したら、他の国務大臣が解散反対を唱えても、総理はその大臣をその場で罷免し自らがその任務を兼務することで全員の合意を得ることができる。総理以外の全員が反対しても全員を罷免すればよい。以上の論理で、内閣総理大臣が衆院解散権を有することが帰結する。しかし衆議院解散という重大事項が、このような解釈に継ぐ解釈で漸く導き出されるということで良いのだろうか。

 内閣総理大臣に衆院解散権があること自体を批判するつもりはない。解散で国民は選挙権を行使することができる。総理に解散権がないと、たとえどんなに国民の批判が強くとも、衆院で過半数を有する政権与党は4年の任期が来るまで、その地位にしがみ付くだろう。過半数を有していれば、野党の内閣不信任案を否決できる。その結果、国民は政権に審判を下すことができない。しかし内閣総理大臣に解散権があることで、(内閣総理大臣が一定の良識を持つ者だと仮定してのことだが)この状況を打破することができる。たとえば野田前総理は選挙で大敗し民主党内からは批難の集中砲火を浴びたが、良識ある総理だったと言えよう。(消費税増税をする前に解散すればもっと良かったが。)だから、内閣総理大臣に解散権があることは、それが濫用されない限り悪いことではない。

 ただ、第7条に解散権の根拠があるというのが気になる。第7条には、こういう表現がある「天皇は、内閣の助言と承認により、・・行ふ」。日本語の常識的な使用に基づけば、「助言」という言葉は、助言を受けた者がそれを拒否できるという含意がある。また「承認」という言葉は、「Aが発議しBが承認する」という風に使用される。だとすると、第7条の表現からは、天皇は衆議院解散という内閣の助言を拒否し、天皇自身が衆議院解散を発議することができるようにも読める。勿論、第4条で天皇には国政の権限がないことが明記されているから、天皇は拒否できないし、発議することもできない。しかし、だとすると、第7条の表現は日本語として少しおかしい。「天皇は、内閣の指示に従い、・・・行ふ」と書くべきだろう。このような不適切な表現を含み、かつ、形式的な天皇の国事行為を記述したに過ぎない第7条が、解散権の根拠となるのは余りにもご都合主義のように感じられる。

 憲法改正論議では、専ら、第9条、近頃は第9条改正の露払いとして第96条の改正が議論されている。しかし、憲法に関して議論するべきことは他にもたくさんある。

 「営業の自由」は第22条で認められた国民の権利だとされる。しかし「営業の自由」とは第22条には書かれてはいない。第22条に明記される「職業選択の自由」から「営業の自由」が導かれると説明されているが、「職業選択の自由」と「営業の自由」は同じ意味ではないし、前者から後者が必然的に帰結するとは言えない。特に年間収益が千億円を超える大企業が経済の中心となっており、多数の国民が企業の被使用者である現代の日本では、特に両者の乖離は著しい。大企業の恣意的な活動が国民生活に悪影響を及ぼさないためにも、「営業の自由」を憲法に認められた強力な権利だとするのではなく、法律レベルで規定される権利だとした方がよいとも考えられる。また、もし企業活動の自由を広く認めることが日本社会の健全な発展と国民の幸福のために不可欠だと言うのであれば、営業の自由とその限界を憲法に明記した方がよいと考えられる。

 憲法第36条には、「公務員による拷問及び残虐な刑罰は絶対にこれと禁じる」とあるが、死刑は残虐な刑罰ではないのだろうか。これに対しては昭和20年代の幾つかの最高裁判例で死刑は合憲と判断されている。その根拠の一つは第31条にあるとされる。第31条には「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない」とある。この条文で「生命」という言葉があることが鍵を握る。つまり、この条文は、「「法の手続」があれば「生命が奪われること」がありえる」ことを含意していると解釈することができる。そして刑法では死刑が刑罰として明記されている。だから、憲法は死刑を否定するものではないということになる。だが、これはかなり強引な解釈ではないだろうか。死刑制度の是非を別にしても、憲法の規定は曖昧で、解釈によっては、第36条の「残酷な刑罰の禁止」や第13条「幸福追求権」などを根拠に死刑制度は違憲だと判断することもできるように思われる。

 このように、憲法論議は第9条改正に留まるものではないし、留めるべきではない。筆者は、第9条と第96条の改正には反対だが、知る権利(国家の情報公開義務と国民の情報公開請求権)の憲法での明文化を求める改正案であれば賛成してもよい(ただし、第9条と第96条改正との抱き合わせでは同意できない。)。「営業の自由」の制約は市場経済の否定だとして異論が多いだろうが、それでも「営業の自由」を憲法で認められる権利として捉えることについて、その妥当性を吟味する必要はあると考えられる。内閣総理大臣の解散権についても議論が必要だ。死刑制度の議論では同時に憲法論議も必要となろう。フランスでは憲法で死刑が禁止されている。いずれにしろ、憲法に関する議論をもっと広めていく必要がある。そして、それが日本の健全な発展に繋がっていくと期待する。


(H25/12/15記)


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